03

 妻が亡くなったのは二年も前だが、その痕跡は未だに色褪せていない。俺の人生のあちらこちらで、彼女の存在を感じている。


 この季節は特にそうだった。夏の暑い日が、香りが、彼女と過ごした日々を思い起こさせるのだ。


 例えば車に乗ったとき。サイドミラーを覗き込めば彼女が見切れている気がした。ソファから漂う香りにはすっかりと彼女が染み込んでいて、頭を洗っていれば彼女に呼ばれた気がした。


 まったく、やっかいだった。

 これではまるで、気が触れてしまっているようではないか。

 突然に、そして頻繁にやってくる錯覚を振りほどく度に、俺は自分と言う人間を知ることになるのだ。俺は傷ついているのだと。


 いっそ、彼女の存在を色濃く感じる風景に身を投じていた方が楽だった。その方が強く実感出来るからだ。それは錯覚だ、彼女は既にこの世にいないのだから、と。それは、自分を酷く安心させた。


 この道を走っている時なんかは特にそうだった。どうしようもないくらいの田舎道で、窓を開ければ強烈な青の香り。吐き気を誘うほどの、クソ田舎。排ガス混じりの都会の空気で育った俺には、生命の息吹に溢れたこの空気の方が毒なんじゃないか。そんな擦れた感覚にもなったことを思い出す。それでもこうしてこの道を走るのは、彼女をより強く感じるからだった。


 会社のプロモーションの一環で打ち上げられたプロジェクトは、歴史を感じる建物の景観を損なわずに空調システムを改修するというもので、この町の高校がその対象になった。プロジェクトチームは体力のある若手を中心に組まれ、その中に俺もいた。改修作業は学校が長期休暇に入る夏休みを利用して行われた。作業要員は最低限で、せめてものお礼にと、学校側からは数人の生徒が手伝いとしてあてがわれていた。その中に舞依はいた。


 大人しい子だった。凛とした表情が彼女の聡明さを表していた。学生たちのまとめ役だった彼女と、同じくメンバーの代表であった俺は、関わることが自然と多かった。気が利く彼女に何度か助けられたし、買い出しついでに車に乗せた事もある。同じ目標を志す者として、信頼出来ると思った。夏祭りに誘われたときも、この町の良さを知ってもらいたい、なんて、そんな真面目な田舎娘の願いだろうと思って、軽い気持ちで二つ返事をしたのだった。そこに特別なものがあるなんて考えもしなかった。その時俺は社会人で、彼女は高校生だった。それだけの関係のはずだった。


「つきあってください」


 だからその夜、彼女のその言葉に俺は驚いた。俺は最初、いたずらにでも合っているのかと思った。クソガキ達が茂みにでも隠れているんじゃないかと探しもした。でも、彼女の真剣な表情、そして強く握りしめられた手を見て、それが冗談ではない事を知った。汚れを知らない無垢な瞳が向けられて、俺は目をそらした。


「俺は東京に帰るんだ。遠いよ。現実的じゃない。君が東京に住んでいるのならともかく」


 煙に巻くしかなかった。歳上に憧れる年代なのだろうと思った。距離という現実を突きつければ諦めると思ったのだ。


「追いかけます」


 聞こえないふりをした。そのまま背中を向けて宿に帰った。東京へは日が昇る頃に帰ろうと思った。これは誰かが魅せている夢なのだ。夏の魔法にかかってしまった俺が、ただただ惑わされているだけなのだ。きっとこの青い空気が悪いのだ。都会の空気を吸えば、それも覚めるだろうと信じていた。


 だから俺は驚いた。

 

 会社のオフィスで、彼女の姿を見た時には。

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