02

 玄関を開けると、荷物を抱えた母が、つま先でふすまを開けていた。見つかりたくない時に限って鉢合わせる。家族ってそういうものだ。


「おかえりなさい。早いのね」


「うん。涼介さんに送ってもらった」


 私はサンダルを無造作に脱ぎ落としながら、膝丈程もある玄関を上がった。


「あら、涼介さん、こっちにいらしてたの。水臭いわねー、言ってくれたらおもてなしするのに。上がってもらったら?」


 和室の奥から聞こえる母の声に、ぶっきらぼうに答える。


「もう行った」


「そうなの? ざーんねん」


 それはどの程度本気なのだろか。

 重たそうに抱えられていた荷物が畳に降ろされ、バスンと大きな音を立てる。


「なに、それ」


 覗き込めば、色あせた紙で出来た薄い箱が横たわっている。


「そろそろ整理しないとって思ってたんだけど、いい機会だから」


 母がジーンズの尻を撫でながら畳に正座する。格好が洋風なのに所作は和風。無意識にそうさせるものがその箱の中に入っている。


「あんたも見る?」


 入り口で立ち尽くす私に目配せもせず、母はその平たい蓋を開けた。


「それ…」


「まぁ綺麗! やっぱり良い物は月日がたっても美しいものね」


 母の手にすくい上げられたのは、浴衣だった。


「きれい」


 素直にそう思った。柔らかな染められた濃紺の中に、淡紫に咲く花が美しい。それはまるで夜の河川に浮かぶ花弁のようだ。生地もどことなく光沢を帯びていて、それが上等のものだと教えてれる。


「思い出すわぁ。舞依まいがこれを初めて着た時のこと。我が娘ながら、綺麗だったぁ」


 私の心臓がトクンと言った。

 これがお姉ちゃんの浴衣。


「高校三年生の時だったっけなぁ。舞依がね、欲しがったのよ。あんまり要求しない子だったのに、必死でね。私はピーンと来てさ。きっと好きな人がいるんだなぁって。夏祭りには、これを着て、好きな人に会いに行くんだろうなって」


 知らない話だった。私はまだ幼く、お父さんと一緒に行っていたから。

 母は頬に手をあて、思い出にふけっている。


「いつのまにか、女になってたのよね。あの子」


 その浴衣を着たお姉ちゃんの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。その背中には女の覚悟のようなものが漂っていて。

 とても、きれいだった。


「結局一度しか着てないのよね。奮発したのにもったいないわ。でももうこれも―――」


「あ母さん」


 ほとんど反射的だったと思う。再びそれを箱へ戻そうとする母を見て、考えるよりも先に言葉が出ていた。


「着る」


 自分が拳を握っている事に気がついたのは数秒たってからだった。


「あたし、それ着たい」


 そんな私を母はじっと見つめている。


「それは、今日のお祭りに来て行く、と言うこと?」


 何が私をムキにさせているのかはわからなかった。ただ心の中で、何かが弾けているのがわかった。それに私は逆らえない。逆らいたく無かった。


「涼介さんがいるのね」


 私の心臓が再び跳ねた。母は私の瞳孔が開くのを見逃さなかったんだと思う。そして視線を寂しそうに落とした。


「それは、酷だわ」


「おかあさんっ!私はっ―――」


 立ち上がった母は私の肩に手を置いてから、そっと私を抱き寄せた。

 なんでいま。

 その行動の意味が私にはわからなかった。


「とりあえず、シャワー浴びてきなさい」


 そう言って、私を見つめた。優しいとも、寂しいとも言える眼で。そして、柔らかに笑ったのだ。


「そんなに汗びったんこだと、うまく着付けられないでしょ。母さん、やってあげるから」


 その言葉に、私の心の中のある部分に、光が差し込んでくるのを感じた。お腹の中から力が湧いてきたのだ。


「まってて」


 私は駆け出していた。

 私の中で何が変わり始めていた。

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