そして、僕はまた涙を流すだろう。
北見 柊吾
そして、僕はまた涙を流すだろう。
「駄目だぁ、ごめんね。やっぱり、全部は言葉にできないや」
由依は泣きながら、声を絞り出して笑った。応えるように僕は口をぱくぱくと動かした。うまく声は出ない。数秒おきに何度も頬を伝う涙のせいだろうか。
何度も後悔を口にして泣き腫らした御両親を退出させた由依はまだ元気そうだった。
「それでさぁ、あと何秒くらい?」
あくまでも由依はにこやかに僕に訊いた。その顔を直視できずに僕は時計を見る。
「……大体五分、それくらいだよ」
僕には一度触れたことのある人間の死期が分かる。何故こんなことが分かるのかは分からない。この異能力に気付いたのは周りから奇跡と称されたあの遭難の時だ。由依の御両親にはこのことは伝えていない。伝えたところでなんの意味もなさないからだ。しかし、医師の説明で今夜あたりが峠だろうとは聞いているらしかった。医学とは進歩しているものだ。僕は感心したことを覚えている。
「あと五分かぁ、うーん、何話せばいいんだろ。いざとなるとわかんないや」
「……なにか、言っておかなきゃいけないこととか、最後にやっておきたいこととか」
「たった五分で?」
由依の瞳からは大粒の涙が生まれていた。未練と諦めがその一粒一粒に詰まっているようにも見える。
「とりあえず、なにか話してくれよ」
一瞬一秒が惜しかった。死期が分かろうが関係ない。由依はコホコホと咳をした。
「んー、私もさ。伝えたい事も話しておかなきゃいけない事も沢山あったはずなのに、なぁんにも、出てこないよ」
「……そっか」
なにか話さなければ、と思って口を開いた。唇が小刻みに震えていることには今気が付いた。
「今さぁ」
由依の瞳の奥はまだ、生の透き通った色をしている。何を話そうと考えあぐねた僕は何を話せばいいのか分からなくなった。
「えっと、次のお話がもうすぐできあがりそうでさ。四人の女性が出てくるお話なんだけど、……」
「でも、私は読めないんでしょ?」
言ってしまってから後悔した。僕の声を遮った由依の顔のどこにも怒りなどは書きこまれてはいなかったけれど、顔いっぱいに広がる大きな文字であきれたと書いてあった。
「龍ちゃんはほぉんと、最後まで変わらないねぇ」
「……ごめん」
「もう、最後くらい笑っていてよ。そういうドジなところも龍ちゃんなんだから」
由依はずっと僕と目を合わそうとせず、窓の外を見ていた。
「でも、そっかぁ……。もう、龍ちゃんのお話も読めないんだね。読むの、好きだったのに」
お話作り。由依が入院してから僕にできた新しい趣味だ。子供なりの罪悪感から始まった、ませた子供の償いも思えば長く続いたものだ。
「新しいのできたら、次からは私に読み聞かせしてよ?」
由依が朝まで読んでいた小説は机に投げ出されている。由依はまだ途中までしか読んでいないはずだが、栞は抜き取られていた。由依なりのけじめなんだろう。
「あぁ、うん。分かった、ちゃんと読み聞かせる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「約束できる?」
「約束するよ、絶対に読み聞かせに行く」
「私にちゃんと、声が届くようにね」
由依は力無げに笑った。
「私死ぬんだよね、もう少しで」
「やっぱり怖い?」
「怖いよ、何もかもなくなっちゃうんだもん」
「後悔してる?」
「どうかなぁ。後悔してないとは思っているけど、死んだ私は後悔してるって言うんだろうね」
由依は僕の手を握った。小さい、か細い手だ。繋がれた点滴が痛々しいように見えた。そして、強く宣言するかのように、由依は力いっぱい叫んだ。
「優しく、生きてよっ」
「僕が?」
「そう」
由依の瞳は僕の瞳の奥を覗き込んでいるようにさえ見える。相変わらず、暖かい眼だ。
「龍ちゃんは、優しくて人想いだから」
あぁ、確かにそうだった。僕自身で言うことではないけれど昔の僕は他人に優しい、いわゆるいい子という奴だったと思う。少なくとも、由依が病院室で生活を送るようになるまでは。
「あぁ、ごめんな。由依」
いまだに後悔はしている。小学生の時の大雪だったあの日、出先で迷子になった僕と由依は家まで歩き通したことがある。歩いたのは十キロ程度の距離だ。しかし、当時小学二年生の僕達にはその距離が壮大な冒険だった。おまけに数十センチにも及ぶ降雪だ。足もうまく進めることはできない。由依は途中からぐったりとしていた。それでも僕が担いで歩き通したはずだ。遭難した、とかなんとか言って警察の方にもお世話になった。何時間かかったんだっけ。十時間くらいかかったような体感はあった。あぁ、そうだ。あの時に道のどこかにお弁当箱を落として雪の中、由依は泣いたんだ。あの日あの後に出た高熱を境に、病弱だった由依は日増しに弱っていった。しかしあの僕らの大冒険に直接的な原因は何もない。今由依を蝕んでいるのは全く異なる病気なのだから。そう、難しい病気なのだと何度も聞いた。それでも僕はあの出来事と由依の病気を切り離せないでいる。心のどこかではまだあの罪悪感が僕の中であぐらをかいている。
それから、ぎりぎりまで色々なことを話していた気がする。最後まで他愛もない話ばかりだった。いつものようにいつの間にか、五分なんて時間は過ぎ去っていた。
由依は今までで一番強く咳込んだ。残された時間は約数十秒。死期というものは揺るぎなく正しいのだろう。
「私の分まで、ちゃんと生きてよ?」
消え入りそうな声で由依は至高の笑顔で言った。そして、目を瞑った。息を引き取るまでのその数秒、あれだけ時間を惜しんだはずの僕は何も言わなかった。ただ、呆然としていた。一筋の涙が、目尻を伝って由依の頬を流れ通っていく。僕はその一滴を小指ですくった。最後の由依の味はしょっぱくて、けれどほんのり甘かった。
その後のざわめきと喧騒は僕の耳にほとんど入ってこなかった。由依の両親と看護師や医師が慌ただしく動くなか、僕はゆっくりと由依の病室を出た。
幼馴染の由依だけは僕のことを信じてくれた。僕の異能力を話し、信用してくれたのは由依しかいない。僕と由依の思い出の大半は白く包まれたあの病室に詰まっていた。入院して五年、僕と由依が付き合って四年半。ついに由依は居なくなってしまった。
僕の寿命は由依と三十分程しか違わない。ずっと何故かは分からなかった。僕と由依は同じ病気にかかっていたわけでも事故で死んだ訳でもない。ずっと不思議だった。それでも、僕が死ぬ理由は由依がこの世から居なくなった途端におのずとうまれた。
僕は由依の身体の残る病室を後にしてから、売店をぐるぐると回って屋上へ向かった。
由依を追い掛けよう。やはり僕は自分勝手な人間だ。由依との約束を破って由依の元へ向かおうとしているのだから。やり残したことはない。お話の続きは由依の隣で書こう。この世界でもう生きている意味は僕にはない。そう思って飛び降りるんだろう。そして、死ぬんだろう。それが誰でもない僕にとって正しい選択だということは数分後に迫った僕の死期が伝えてくれている。
そして、僕の意識は身体と共に朝を迎えた。
目覚まし時計に起こされた僕は身体をおこすと自分を確かめて、時計を確認する。日付は変わっていない。
おかしい、やっぱりだ。僕は過ぎたはずの由依の命日をまた生きている。こんなことは初めてだ。
だが、確信に近いものがあった。これは最後の由依の呪いだということ。僕は大きく伸びをする。僕の死期は変わっちゃいない。勿論由依の死期も変わっていない。今日起こる出来事は何も変わらないのだろう。
今日も病室にいる由依の元へ行こう。
あいつも案外、自分を無駄に遣う僕みたいなやつなのかもしれない。
病室までの道のりを僕は全速力で駆けていく。
この由依の世界の死期はまだ遥か、遠い未来だ。僕の異能力がそう耳元で告げていた。
そして、僕はまた涙を流すだろう。 北見 柊吾 @dollar-cat
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