LⅠ    敵の手中

 ずっと駆けつづけてきたノエルは、少し疲れて足を緩めた。ずいぶんと遠くまで来てしまったみたいだ。切れた息を整えつつ辺りを見渡す。

「……何処だ、ここ。」

 人の気配は無い。どっちへ行ったものか。ノエルはドレスをはたいて整え、大きく一つ息をついた。

 ロビンを連れた黒髪の男の姿を見失ったのはつい先程のこと。「追って来い」というその言葉の通り、彼はまるでノエルを誘うように彼女の目の前を、しかし決して追いつかぬ距離をおいてすり抜けていた。いいようにあしらわれている、舐められてるんだ……ノエルは悔しかった。

「ちくしょう、バカにしやがって。」

 思わず呟き、唇を噛む。可愛い〈弟〉の笑顔が脳裏をよぎる。もしロビンの身に何かあったら、自分に助けられなかったら……そう思うと、心臓が凍るようだった。大声で叫んで泣き喚いて、この何と表していいか分からない辛く理不尽な思いを全部ぶちまけたい衝動に駆られた。それを押し止めていたのはただ一つ、そんなことをしてはロビンの身がどうなるか分からないという考えだけだった。

(あの男の狙いは、あたしだけ。あたしが大人しく言う通りにさえすれば、ロビンが傷つく理由は何もない。あたしさえ手に入れば、ロビンはあいつにとって何の価値もないんだ。だから……)

 気持ちを堪えるかわりにこぼれ落ちたしずくを、ノエルはぐいと拭った。

(あたしがロビンを守る。それが出来るのは、あたしだけなんだ。)

 どうしたらいいのか分からないけど、何か動かずにいられなくて、ノエルはとりあえず次の角を曲がる。そこでまた、足を止めた。

 路地の先に、こちらに背中を向けて横たわる小さな体躯があった。見覚えがある後姿――痩せて弱々しい肩も、繊細で綺麗な髪も、気に入ってよく着ている服も、全部。

「ロビン!」

 ノエルは勢いよく駆け出した。

 しかし彼女の襟首を何かが乱暴に捕まえた。

「ぐ……あっ……!?」

 喉が締め付けられて声が出せない。相手は仔猫でもつまみ上げるように、彼女のペンダントを掴んで持ち上げた。細い鎖が首に食い込む。ノエルは必死でもがき、鎖をなんとか引っ張った。どうにか息を吸い込む。しかしさらに持ち上げられて、足が地面から離れそうになる。その耳元で、嘲笑うようなあの男の声がした。

「苦しいか?」

「……っ、アレス……」

 彼の暗い眼が鋭く少女を見下している。ノエルが相手をきっと睨むと、男は笑っていた。

「何だその目は。私が憎いのか? 恨むなら、私の手の内に単身飛び込んだ自分の愚かさを恨め。お前一人であの子供を取り返せるとでも思ったのなら、私も見くびられたものだな。」

「違う、俺は……俺が来れば、ロビンは解放すると……!」

「そんな言葉に莫迦正直に従うのが愚かだと言うのだ。本当に信じたのか? お前が来ようが来まいが、どちらでもこうなったのだ。お前やお前の家族が苦しむことに変わりはない。」

 アレスは片手でノエルを捕らえたまま、すらりと剣を抜いた。ノエルは歯を食い縛った。こうなるのは分かっていた。覚悟は……ある。

「俺は……俺はどうなってもいい。頼む、ロビンは……」

「案ずるな。」

 アレスはますます口の端を吊り上げて笑う。

「今は眠っているだけだ。……だが『お嬢様』が寂しがらぬよう、一緒にいさせて差し上げよう。」

「!」

 その言葉の意味は考えるまでもなく分かった。振りほどこうと渾身の力で暴れても、どうしようもない。息ができない所為か涙の所為か、視界がぼやける。もう、駄目なのか。自分には何も出来ないのか……。

 そう思った時だった。

 ばっと視界に何かがかぶさる。少女の首に食い込んでいた細い鎖が弾け飛んだ。何かに強く包まれたのを感じて、ノエルはもろともに地面に倒れ込んだ。肺に空気が一気に流れ込んできて咳込む。

 そっと目を開けて、ノエルは驚いた。

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