ⅩⅩⅩⅨ 嘘の道
柔らかな昼の陽が、伯爵家の屋敷を包んでいた。
穏やかな光景。令嬢ノエルはすっかり元気な様子で、物珍しそうに庭を歩き回っている。そのすぐ傍らに寄り添うロビン。楽しそうに言葉を交わす二人は本当に姉弟のようで微笑ましい。その様子を、サーヤとエディがテラスで見守っている。忙しいミカエルも時折、妹の様子を見に顔を出す。
平和な家族の風景そのものだ。見掛けは。
まだ全てが丸く収まった訳ではない――そんな緊張感が微かに皆の意識の底にある。表面とはらむ空気とがあまりにも違う、その雰囲気が落ち着かなくて、耐えられなくなったガーネットはそっとその場から抜け出した。庭園を離れ、屋敷を囲むちょっとした森の小道を歩き、小さくため息を吐く。
その時。彼女は視界の端に人影を捉えた。目を凝らすと、遠ざかっていく見慣れない後ろ姿が見える。とっさに追うようにそちらの方へ向かった。その黒い影はすぐに見えなくなってしまったが、放心したように立ち尽くす友人に出くわした。
「イリス?」
ガーネットは驚いて友人に声を掛ける。イリスはハッとして顔を上げ、慌てて笑顔を作った。
「やあガーネット。どうしたの?」
「ちょっと気分転換に。今、誰かここにいなかった?」
尋ねた瞬間、イリスの目に浮かんだ狼狽の色をガーネットは見逃さなかった。
「いいや、別に。何もないよ。さあて、そろそろ仕事に戻らないと。」
わざとらしく言って伸びをしたイリスに、ガーネットは肩を竦める。
「あの朝の事もそうだけど……あまり根を詰めすぎると良くないわよ。適度に息抜きしなきゃ。」
彼女の悪戯っ子のような笑顔に、つられてイリスの顔にも笑みがこぼれる。けどその笑みにはやっぱり少し元気がないように見えて、彼女は顔を伏せてイリスの手を掴んだ。
「ガーネット?」
「ねえ、イリス……。いつまで、そうやって無理するの。」
いつも明るい彼女らしくない、泣きそうに震えた声。イリスは驚き、寂しそうに微笑んで答えた。
「なんだか、もう
イリスはそっと、ガーネットの頬に触れる。
「どうして君が泣くの? 君の方が僕より辛そうな顔してるよ。」
「だって、イリスがとても苦しそうだから……。私、誰かが苦しんでいるの、すぐに分かるのよ。もう見てられない。」
「敵わないなあ、ガーネットには。」
イリスは苦笑し、ハンカチを取り出してガーネットの涙を優しく拭う。彼女の顔を覗き込んで囁いた。
「あの時もそう言って、僕の嘘を見抜いたんだったね。」
イリスの〈嘘〉――騎士として男性として
「あの頃の僕は、自分の嘘が辛かった。嘘を吐いてる事が苦しくて仕方なかった。ミカエル様も、奥方様も、オニキスも君も、みんな良い人だったから、騙しているような気分になって。」
「嘘じゃないわ。確かにあなたは女であることを隠しているけれど、それで誰かを傷つけてはいない……それは罪のない事よ。嘘だなんて言わないで。あなたは『イリスという男性』として生きることを選んだだけ。これがあなたの生き方なんでしょう? 生き方を、嘘と呼んではおかしいわ。」
強い口調で反論したガーネットに、イリスは微笑む。
「うん。あの時も君はそう言ってくれて、僕はふっと楽になったんだ。自らを偽っていることに変わりはないけれど、男として生きているのが今の本当の僕だと思えたから。」
「イリス……。」
「だから、そんなには無理していると思っていないんだよ。まあ、男女の差というものは……少ししんどいけどね。」
冗談めかして言ったイリスに、ガーネットもくすっと笑う。大切な友人の顔にやっと笑顔が見えたことにほっとしていた。
並んで屋敷の方へと歩く途中、イリスはぽつりと呟くように尋ねた。
「ガーネット。君は、自分の選んだ生き方を後悔したことはないの?」
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