ⅩⅩⅩⅧ 大切なもの
「アレス様、如何なさいましたか。」
傍らにひざまずく男の声に、黒服の青年はふと我に返った。
「あ? ……ああ、何でもない。」
(夢……白昼夢か。)
彼は憂鬱そうに小さく息をつき、眉を顰めた。
「久々に、嫌なものを思い出したな。」
今まで、幼き日の思い出は意識的に封じていた。彼にとってあの日々は、自分が失ったものを思い出させるだけだったからだ。とりわけ母の記憶は、その面影をそっくり受け継いだ〈彼女〉を思い出させる。もう二度と自分の元に戻って来る筈のない大切な存在……。手を伸ばせば届きそうなのに、決して手の届かないその輝きに、やはり手を伸ばさずにはいられない想いは、耐え難い苦痛だった。
いや、違う。届かないのではない、触れられないだけだ。手に入れてはいけない、触れて穢してはならないという気持ちが彼のどこかにあって、それが彼を邪魔していた。今までは。
(だが、何を悩む必要がある。)
手に入れられない筈はない。あんなに、近くにいるのだから。
(大切な存在を手にできるというのに、取り返さずに見ている方がおかしい。)
アレスはふっと笑い、立ち上がった。
「お出掛けでございますか。」
「ああ。留守を頼むぞ、リー。」
そう言ってにやりと笑う彼の瞳に、先刻の物憂げな光はもう見られなかった。
「布石を打ってくる。決戦は近い。」
「……行ってらっしゃいませ。」
アレスの言葉の真意が分かったのかどうか、リーはただ頭を下げて主人を見送った。
やがて彼もその部屋から退出しようと扉へ向かう。ちょうどその時、外からその扉が叩かれた。扉のむこうにいたドレス姿の令嬢は、扉を開けた男の姿を見るなり不快感を露わにした。
「なんでお兄様のお部屋からあなたが出てくるのよ。」
睨み付けるローズに、彼は表情一つ変えずに告げる。
「アレス様はお出掛けになりました。」
「どこへ? 何をしに?」
「存じ上げません。」
「本当に?」
「嘘は申しません。」
取りつく島のない返答に、ローズは不愉快そうに頬を膨らませた。
「気に入らないわ。お兄様ってば、大事なお仕事だと言ってはあなたと内緒話ばかりして、あたしを除け者にする。最近特にそうよ。あたし、お兄様ともっと一緒にいたいのに。」
リーは何も答えない。それが余計に彼女を苛立たせた。
「答えなさい、リー。あなたとお兄様は何をしているの?」
「申し上げられません。」
「言うのよ。あたしのお兄様の事で、あなたが知っていてあたしが知らない事なんて有り得ないの。そんなの許さないわ。あたしのお兄様よ。」
少女は頬を紅潮させ、自分でも訳が分からぬまま駄々をこねる子供のように喚く。
「あたしにはお兄様しかいないんだもの、お兄様にもあたしだけなの! そうじゃなきゃ不公平よ。なのに、今のお兄様はあたしじゃない『大切なもの』のことに夢中になっているわ。そんなの嫌、絶対に嫌! たとえお兄様の『大切なもの』だとしても、あたしからお兄様を取り上げるようなものなんて、壊れちゃえばいいのよ!」
感情の昂りが涙となって溢れる。差し出されたハンカチで目元をごしごしと拭った。そこでやっと我に返り、他人の前で醜態を曝したことに気付いて、羞恥心が顔を耳元まで真っ赤に染めた。
「やだ……忘れて! 今あたしが言ったこと全部、忘れなさいっ!」
ハンカチで顔を覆ったまま叫び、相手が何か言う間もなくローズはだっと走り出した。その背中を、リーは相変わらず感情の読めない顔で見送った。
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