ⅩⅩⅩⅢ 闇の中
「ではお兄様、お休みなさいませ。良い夢を。」
「ああ。お休み、ローズ。」
アレスは優しい微笑みを浮かべて、使用人に連れられて名残惜しそうに自室へ引き取る妹を見送った。扉が閉まった途端、彼の顔から笑みなど跡形もなく消える。椅子に掛けて考え込むその瞳に宿る暗い光。
やがて彼はおもむろに立ち上がり、呟いた。
「リー。」
「はい。」
即座に扉が開いて、部屋に入ってきた男がひざまずく。アレスは彼を見ぬまま、独り言のような調子で話し出した。
「概ねこちらの思惑通りに事が進んでいるようだな。ノエル嬢は家族と再会し、あちらはあちらでひとまず落ち着いた。私の事もある程度は知れている筈。あの御曹子が一件に関わったかは知らんが、父の名に聞き覚えくらいあるだろう。シメオン=バダンテールという名……忘れたとは言わせん。」
彼は一度言葉を切り、暗く鋭い目で何処かを見据える。脳裏に、今日の出来事がとりとめなく浮かんでは消えた。その口の端が、満足気に少し上がる。この長かった一日で、どれほど事態が動いただろう。
が、その顔がふと陰る。
「ひとつ予定外があるとすれば、あの女を
(私の命がある限り、私の大切なこの子たちに、傷一つだって付けさせません。)
細腕を広げて自分の前に立ちはだかった女の声が、まだ耳の中に残っている。
不意にその顔に、声に、別の女性の印象が重なった。
(ごめんなさいね、私にはこれしか出来ないの……あなたを守る為に……。)
彼は動揺したように目を見開く。耳の中に声が響き、薄暗いあの光景が甦る。
(アレス……幸せになって。私には、それだけが……)
(母上!)
「やめろ!」
脳裏に浮かんだ面影をかき消すように叫ぶ。思わず立ち上がっていた。
「アレス様?」
「何でもない。」
彼は苛立たしげに唇を噛み、椅子に掛け直す。浮かびかけた光景は消え、脳裏の光景はまたあの今日見た母子の姿に戻る。
「要らぬ邪魔をしなければ、死なずに済んだものを。子供を守ろうと犠牲になる……母親とは愚かなものだな。自分の子でもないのに。」
その時、彼はふとあることを思い出し、傍らに影のように控える男に尋ねた。
「あの女、やけにアンヴェリアル前伯爵夫人に似ていた。それに令嬢ノエルを守ろうと、あそこまで……。あの女について何か分かったか。」
「近所に住む者からは、何も。あの母子の素性、五年前にあの家に来るまで住んでいた場所、息子の父親の名すら誰も知らないという有様です。ただ、あの女には妹がいたらしいと。」
その答えに、アレスはただ肩を竦める。
「そうか。まあ、それ以上は知っても仕様のない事だ。」
そして、不意にアレスはリーと呼んだその男を見、彼に話しかけた。
「今までに改めて尋ねたことはなかったが……。お前は、このように過去の出来事や恨みに憑りつかれた私を愚かと思うか。」
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