Ⅳ     黒の刃

「俺をどうする気だ?」

 青年は答える代わりに、黙って剣をすらりと抜き放った。

 ちょうど猫の尻尾が逆立つのと同じように、ノエルは全身が総毛立つのを感じた。本能がけたたましく警鐘を鳴らす。恐ろしいのは鋭い刃を持った剣よりも、それを持つ男から放たれる、凄まじい殺気。

 ノエルは腰を落として、左肩を塀に付けたままじりじりと後退する。青年もそれを追うように一歩こちらへ歩み寄る。あと一歩……あと一歩だけでも彼が前に進めば、もしかしたら……

 ここは路地と言ってもそんなに細くない、大人が二人並んで歩けるくらいの幅はある。つまり、目の前にいる相手をかわして逃げることも、小柄ですばしっこいノエルになら不可能ではないはずだった。

 青年の足がまた一歩前に出た瞬間、ノエルは低い姿勢のままその左脇に飛び込んだ。

 しかし青年の反応はノエルの予想以上に素早かった。目の端で何かが煌めいたのが見えてノエルはとっさに後ろへ跳んだ。それと同時に、ちょうどノエルが走り抜けようとした辺りのレンガ塀に刃が突き刺さる。怯えに顔をひきつらせたノエルに、軍神の名を持つ男はまた一歩迫った。

「逃げずともよい。まだ何もせぬ。」

 塀から引き抜いた細身の剣を右手で弄びつつ、薄く笑う。その眼は少しも笑っておらず、刃のそれに似た物騒な光が宿っていた。思わず足がすくむ。それでもしっかり視線を合わせて睨み付けると、アレスは少し感心したようにほうと息をついた。

「なかなか胆が据わっているようだな。お前、名は?」

 どこか面白がっているような口調。ノエルは声の震えを抑えて一言答えるのがやっとだった。

「ノエル。」

「それだけか?」

「生憎、俺は自分の氏素性を知らなくてね。それだけさ。」

 さすがに少しむっとして、ふて腐れて答える。もっとも、ちゃんとした姓名がなくたって貴族や裕福な市民でもないかぎりたいして困らない。

「そう、か……」

 ノエルの言葉を聞いたアレスは少しだけ考え込む素振りを見せ、唐突に言った。

「ところでノエル。お前、もしやなど持っていないか? 素性を知る手掛かりになるぞ。」

「えっ……」

 ノエルはとっさに胸元の細い紐に手をやる。服の中にあるもの、紐の先に結ばれたものを自分の体に押しつけるようにして存在を確かめる。金属と宝石の冷たさが、少しだけノエルを落ち着かせてくれた。

 それは、肌身離さず着けているお守り。

 何度も見る夢に出てきた、あの母の瞳の色の指環。

 その様子を見たアレスは薄く微笑んだ。いや、微笑みなどではない。口の端が上がり、恐ろしく歪む。元が整った顔立ちをしているものだから余計に凄味がある。

、そうか。」

 低い声で呟く。ノエルの背筋に寒気が走った。

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