Ⅲ     罠の中

 一体どのくらい引っ張り回されただろう。やがて少女がおもむろに足を止めたので、ノエルはやっと息を吐いた。

(やれやれ。……って、何処だ、ここ。)

 見知らぬ細い路地だった。まだ昼間だというのに全く人気ひとけがなく、人が生活している活気すらない。どうやら空家ばかりの一角に入り込んでしまったらしい。さっきから第六感がピリピリして、嫌な予感しかしない。

「なあ、お嬢様。道でも間違えたんじゃないのか? こんな危ない所、あんたみたいなご令嬢の来る所じゃないぜ。」

 何となくそわそわしながら言う。ローズはいつの間にか少し離れて、ノエルに背を向けたまま黙って立ち尽くしていた。

「お嬢様……?」

「いいのよ、ここで。間違えてなんかいないわ。」

 振り向いたローズは、場違いなほど明るく笑った。

「あたし、言われたとおりに全部ちゃんと出来たわ。そうでしょ、お兄様?」

 ローズが自分の背後を見て微笑んだので、ノエルはその視線を追ってバッと振り向いた。

 路地の入り口を塞ぐように、一人の男が立っていた。先刻ローズを追っていた者とは違う。短い漆黒の髪に暗い瞳、黒い服に身を包んだ若い男。顔貌は整って美しい、しかしどこか影がある青年だった。彼はゆっくりと二人に歩み寄り、子犬のように彼に駆け寄ったローズの頭を撫でて微笑んだ。

「よくやった、ローズ。お前は、私の最高の妹だよ。」

「アレスお兄様……」

 兄の言葉に、彼女は幸せそうな極上の表情を浮かべる。アレスと呼ばれた青年は、そんな妹をろくに見もせずノエルに視線を移した。冷たく鋭い、射抜くような視線に、ノエルは思わず一歩あとずさる。それは、獲物を追い込んだ狩人の眼だった。

「全部、芝居だったのか……!」

 ノエルはローズを睨み付けた。全てはこのための罠。娘は助けを求めるふりをしてノエルに近付き、あてもなく走っているように見せかけて兄の待つこの場まで誘導したのだ。ノエルの怒りを、娘は嘲笑うような口調で受けた。

「そうよ。追われて必死だったあたしは『たまたま』あなたと出会って助けを求め、あなたを巻き込んで逃げているうちに『偶然』こんな寂しい所に迷い込んでしまったの。偶然よ……まるで、お伽噺みたいでしょう?」

 ノエルは唇を噛む。何も考えずに罠に嵌った自分が口惜しかった。人一倍用心深いつもりだったのに。誘き出されて……どうなってしまうのだろう? 怖くて震えそうだったが、強がってぞんざいに言った。

「それにしても、やけに手の込んだ真似だな。俺みたいな孤児みなしご、捕まえても何にもならないぞ。何が狙いだ?」

「そんなのあたしの知ったことじゃないわ。あたしはただ、お兄様の言うとおりにしただけよ。」

 アレスは子供たちのやり取りを黙って聞いていたが、不意にローズの肩に手を置いて言った。

「ローズ、お前はここまででいい。一人で帰れるな?」

「ええ。でもお兄様、この子をどうなさるの?」

「それは、お前は知らなくていい事だ。気を付けてお帰り。」

「……はあい。」

 ローズは少し不満気だったが、素直にぱたぱたと走って路地を後にする。ノエルはゆっくりと二歩下がってレンガ塀に背を預けた。奥へ逃げても袋小路、行き止まりだ。逃げるなら隙を突いてかわすしかない。視線は黒服の青年から微塵も外さず、全身の神経を集中させて隙を探る。

「俺をどうする気だ?」

 青年は答える代わりに、黙って剣をすらりと抜き放った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る