第5話

 私とケースケはナントカ神の前にいる。校庭だ。ついさっきまで黄色かった日の色が徐々に赤くなりつつあり、夕方の後ろに隠れ控えている夜が近づいてきていることがわかった。神は次元の歪みからもう腰の部分まで出てきている。少なくとも下半身は裸のようだが、一応腰に布を巻いているので、局部は隠れている。誰に見せてもセーフ。

「いよいよだな……荻原」

「そうね……ケースケ」

 二人はゆっくりと降りてくる下半身を眺めていた。みょん、みょん、みょん、と変な音を立てながら出てきていて、今はへそが見えるあたりまで来ている。上半身は裸のようだ。でっぷりと肥えていて結構メタボ体型だ。真剣になるべき場面なのに、何故か笑えてくる。

「ねえ、ケースケ」

 私はケースケに話しかける。

「何?」

 ケースケはゆっくりと答える。

「私が下の名前で呼んでるんだからさ、ケースケも私のこと、下の名前で呼んでよ。もう恋人なんだし」

「お、おう。あー……えーっと」

「もしかして、忘れたの?」

「ばっ、そんなわけないだろ。なんだか恥ずかしくて……なあ、シノ!」

 ケースケは伏し目がちではあるが、顔を赤くして私の下の名前を叫ぶ。久しぶりだった、その名前を呼んでくれたのは。

「よかった。昔は私のこと下の名前で呼んでくれたよね。いつから上の名前で呼ぶようになったんだっけ」

「たぶん……中学生くらいか」

「あはっ、そっか。お年頃だったものね」

「うるせー」

 赤い顔のまま悪態をつくケースケ。私はニヤニヤした笑顔でケースケを見つめる。ケースケは目を逸らすように神の方を向いた。神は胸のところまで見えており、乳首が出かかっている。あっ、乳首にちょっとだけの毛が生えている。

「ねえ、ケースケ」

 私はもう一度訊ねた。

「なんだよ、シノ」

 ケースケもう一度答えた。

「もし元に戻れたらさ……一緒に海行こうよ。もうすぐ夏休みだもん」

「海か……ずっと行ってないな。でも俺、泳げないぜ」

「いいじゃない。泳ぐだけが海の楽しみ方じゃないよ。私、ケースケのやりたい方に合わせるよ」

 ケースケの顔のような赤さの夕日が私たちを照らそうとする。でも、段々と現れる神の姿がそれを遮り、私たちは影の下だ。

「そうか……ありがとう。昔はよく一緒に出掛けてたけど、大体親も一緒だった。一度も二人きりで一緒にどっか行ったこと、なかったな。これ、俺たちの初デートってことになるよな」

「もちろんよ。だから、絶対戻ろうね」

 私は口角を上げ、穏やかな顔で頷く。

「当然。お前もまた夏バテしたりするなよ」

 ケースケも笑って言い返す。

「へへ、痛いとこ付くなぁ。……うん、わかったよ」

 神が降りる。歪みから顎が出、鼻が出、そこから鼻毛が数本飛び出ているのが見え、目が出、目やにがたっぷりついた目が見え、やがて頭の毛先まですっかり出きった。アブラハムは彼の髪型を参考にしたのだろうか、頭は彼とよく似てM字ハゲだった。その巨体を完全に現した神はそのまま校庭に勢いよく降り立ち、そのときの衝撃でズシンと大地が揺れた。

 降り立った神は苦悶の表情をしていた。よく見ると汗だくだ。何かに一生懸命耐えているような顔をしている。

 あっ、そうだ。校庭の砂が熱いんだ! 今日は日差しが強かったし、ここ最近熱帯夜が続きなかなか気温が下がらない。当然たっぷりと日差しを浴びた土が広がる校庭は熱い。夜も暑いので温度も下がらず、熱いままだ。神は大粒の汗を流しながら「熱い熱い、でも熱がって足をバタバタさせたら地鳴りを起こして周りに迷惑をかけてしまう。ここは我慢のときだ」とか思っているに違いない。表情がそう言っている。変な宗教の変な神のくせに、妙に常識的なところがある。

 神は私たちの存在に気付いたのか、細めた目でこちらを見下ろした。


「玉井先生。あのアブラハゲを保健室に連れて行きました。命に別状はないそうです」

 八神ミヨが部室に戻ってきて、窓の外を眺める玉井先生にそう報告した。

「そうか、ご苦労」

 玉井先生は彼女を見もせず、遠くを見たまま頷いた。

「伊村さんは保健室でまだ彼の様子をみています。私もしばらくしたら戻ります」

「そうか。よろしく頼む。熱中症は意外と恐ろしい病気だ。油断するなよ」

「はい。……あの、玉井先生」

 ミヨはもじもじしながら訊ねた。玉井先生はそのときやっと外から目を離し、彼女の方を向いた。

「なんだね」

「間違えてウィリワァスティ神を呼び出してしまったこと、まだ怒っていますか?」

「いいや。すでに事態は解決に向かっている。もう無駄に気に病むことはない」

「ですが……あの、すみませんでした」

 ミヨは腰から曲げるように深々と頭を下げて言った。玉井先生は無表情を崩さずに答えた。

「ギォピゥハゥグ神の声を一度でも聞いてしまった者には神を帰すことはできない。そういうことになっている。だから我々がいくら努力しようが今更どうにもならない。あとは彼らに未来を託し、見守ることくらいしかできないのだよ」

「そう……ですか。わかりました、わたしも祈ります。彼らの未来のために」

 玉井先生は再び外に視線を移し、ミヨも同じく外を見やった。そこには半裸の巨人のような姿の神が立っていた。

「いよいよだな」

 玉井先生は呟いた。

「そのようですね」

 ミヨも遠くを見ながら言った。

「ところで、玉井先生」

 ミヨは視線を外さないまま先生に訊ねる。

「どうした?」

 先生も同様に答える。

「先生もご経験なされたんですよね? 神の降臨を」

「ああ。たしかに前は私が追い返したわけだが」

「恋人とキスをすることで帰る……そのときのお相手は誰だったのですか? 先生は独身だとお聞きしていますが」

 少し間を置いて玉井先生はもう一度彼女の方を向き、ゆっくりと答えた。

「今それを聞くかね。それは……」

 玉井先生は俯いた。よく彼を見るとさっきまでアブラハゲが被っていた中折れ帽をいとしそうに持っていた。先生はそれを見ながら、もじもじと帽子をいじっていたのだった。彼はふと顔を上げ、彼女の方をまた見据えた。

「秘密だ」

 そう話す玉井先生の顔は赤い。この件についてはあまり深入りしないほうがいいだろう、と八神ミヨは思った。


「えっと……ヌ……なんとか神! 聞こえてる? あなたがここに降りてきたことで皆が迷惑してるの! だから帰ってくれない?」

 私は大声で神に向かって叫んだ。神は困惑した様子で頭をボリボリ掻いた。巨大なフケが大地に舞い散る。汚い。

「ントアイョヴァニタオイフィハカウィ」

 何か神は言葉を発したが、玉研部で祀られているだけあって、彼ら同様やはり何を言っているかわからない。神は頭を掻くのをやめ、膝を抱えてしゃがみ込んだ。

「ゴアイエシファウォファエクフォライヲ」

 神は右手と左手の人差し指の先同士を合わせる動作をした。言っていることはわからないが、なんとなく意味は通じる。さっさとアレをやれってことだ。

「……わかったわ。やればあなたは帰ってくれるのね?」

 それから私はケースケの方に身体ごと向けた。

「……やるんだな」

 ケースケはゆっくりと言った。私は黙って頷いた。

「ええ、準備はいい?」

「……ああ」

 二人はお互いの目を真っ直ぐに見据えた。ケースケの方身長が高いので私が彼を見上げる形だ。私から彼の方に少しずつ歩み寄り、近づく。そして、目と鼻の先まで来た。私は息を呑んだ。心臓がバクバクと鼓動する。彼は目を瞑り、顔を近づけた。目を瞑って、つま先を立てて少し背伸びをした。

「ヌフォオオオオオオオオオ!! ヌフォオオオオオオオオオ!!」

 神の鼻から突風が吹きだす。臭いし強いしうるさい。私たちは驚いてキスを中断してしまった。

「ちょっ、神、鼻息うるさい!」

 私は神に向かって怒鳴った。今お望みの物を見せるから黙ってろ、これじゃいろいろ台無しよ! 

「ごめんね、ケースケ」

「いや、構わない。……はは、やっぱりドキドキするな。いつも一緒にいたのに、何でだろう」

「私に聞く? 私にわかるわけないでしょ。でも、やっぱり不思議だよね、恋って。実際は何も変わってないはずなのに、その枠組みの中に嵌められた瞬間、周りの目も、自分たちの目も、見方がすっかり変わっちゃうんだもん。おかしいよね。私たちは幼馴染で、同じ学校に通っていて、クラスは別だけどいつも一緒にいる仲良しだってことは恋人になる前もなった後も変わらないもの」

 私は上げていたかかとを元の位置に戻しながら言った。ケースケはただじっと私の潤んだ瞳を覗き込むようにしていた。

 そして、ケースケは私の背中に手を回し、私をギュッと抱きかかえた。

「シノ。好きだ」

「さっきも言ったばかりよ。でも、何度でも言う。私も大好き」

 私はケースケの胸板に顔を押し付けた。男の汗の臭いがした。

「一緒に帰ろう、シノ!」

「海のこと、忘れないでね、ケースケ!」

 私はまた背伸びをして、彼の唇に自分の唇をゆっくりと押し当てた——。


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