2018.8.12怪しいから身元調査をやってみた:劉伯根

初手からガチの漢文連発。

ドン引いた方もおられたかも。


しかし、

反省はしていない。

今回もあんな感じ。



前回の身元調査により

作者の酉陽野史さんは『晋書』を読み込み、

元ネタをさらっていることが分かりました。


実際にはかなりマジメにやっていたのです。



引き続き、

劉霊の身元調査をした中に兄の劉伯根の

元ネタがあったので、片付けておきます。



劉伯根はチョイ役?


前半はかなり活躍しました。


劉備の養子ながら関羽を見殺しにして誅殺される、

わりと悲しい末路をたどった劉封の二人のお子様。


兄が劉伯根、弟が劉霊。

という設定です。



ちなみに、

原書の設定では劉霊の兄は劉宣、

それは冒頭だけでわりとすぐに

劉伯根にすり替わったくさい、

というご指摘をその筋の専門家、

まめさんから頂きました。


異論がないご指摘でした。

感謝感謝。


同名の劉宣が匈奴五部にも現れるので、

混乱するのですよ。


だから、翻訳の前半に劉宣はいません。

中盤に出る劉宣は、五部の中の人です。



さて、その劉伯根さんの元ネタとは?



『晋書』王彌傳

惠帝の末、妖賊の劉柏根りゅうはくこん東萊とうらい㡉縣げんけんより起つ。


彌は家僮かどうを率いて之に從い、柏根は以て長史ちょうしとなす。


柏根の死するに、徒を海渚かいしょあつめて苟純こうじゅんの敗るところとなり、げて長廣山ちょうこうさんに入りて羣賊となる。


彌は權略多く、凡そかすめる所あれば、必ず豫め成敗を圖りて舉げて遺策なし。弓馬は迅捷にして膂力は人を過ぎ、青土は號して「飛豹」となす。



モデルとなったのは劉柏根なる人物。


柏は松と並んで墓地に植えられる木です。

柏根という名には霊的な意味がありそう。


山東半島にある㡉の縣令なのに叛乱、

しかも「妖賊」とかDisられています。


民間信仰で百姓を煽ったんでしょう。


張魯を思い出しました。

トンデモ縣令やないか。



劉柏根は王浚が遣わした軍勢に殺されます。


王彌もその乱に身を投じておりまして、

劉柏根の死後、群盗に身を落としました。


飛豹はあだ名ですね。

カッコイイ、でも自称クサイ。


ちなみに、王彌はええとこのボンです。



王彌は東萊の人なり。家は世々二千石たり。


祖のは魏の玄莬げんと太守、武帝の時に汝南じょなん太守に至る。


彌は才幹ありて書記を博涉し、わかくして京都に游俠す。


隱者の董仲道とうちゅうどうは見て之に謂いて曰わく、「君は豺聲さいせい豹視ひょうし、亂を好みて禍を樂しむ。若し天下騷擾せば、士大夫たらざるなり」と。



「亂を好みて禍を樂しむ」って中二ですね。

あだ名といい、王彌はこんなんが多いなあ。


代々の二千石の家柄。

二千石は、俸禄の額。

つまり郡太守クラス。


洛陽には遊学したんでしょうけど、

太学にはまあ入ってないでしょう。

行ってたら、記録すると思うのね。


王彌は洛陽で劉淵と知り合っています。

二人はどこで知り合ったでしょうかね。


太学ではないとすると、

私塾で知り合ったのか。


一番面白いのは、

游俠同士として知り合ったという筋ですが、

劉淵はあくまで匈奴からの人質ですからね。


そんな怪しい行動はしない、、、よね?



ちなみに、游俠という熟語の用例は、

『晋書』に三、四例しかありません。


『後漢書』あたりはもっと多いです。


果たして、これは何を意味するのか。


存在がなくなったはずはないですから、

なかなか興味深いところではあります。



話を戻して劉柏根。

叛乱は306年に起こりました。



『晋書』孝恵帝紀光熙元年

三月、東萊㡉令の劉柏根は反し、㡉公を自稱して臨淄りんしを襲う。


高密王こうみつおうの簡は聊城りゅうじょうに奔る。


王浚おうしゅんは將をりて柏根を討ち、之を斬る。


『晋書』高密孝王略傳

永興えいこうの初め、㡉令の劉根は東萊に起兵し、百姓をたぶらかし惑わす。


眾は萬を以て數え、略を臨淄に攻む。

略はこばむ能わず、走りて聊城を保つ。



逃げの司馬略さん。


ちなみに、恵帝紀と高密王略傳では時期が違い、

・恵帝紀=光熙元年三月(306年)

・高密王略傳=永興初め(304年末か305年初め)

となっています。


前者は平定、後者は発生記事で矛盾はなく、

叛乱は1年半ほど続いた、ということです。



張方が恵帝司馬衷を長安にドナドナ、

記念に永興に改元、これが304年末。


司馬顒の拠る長安を祁弘たちが落として

疎開していた恵帝司馬衷を洛陽に返品、

改元したのが光熙、これが306年6月。


『続三国志II』では、以下の回が該当します。

「第二十一回 晋帝司馬衷は長安城に行幸す」

「第三十九回 晋帝司馬衷は再び洛陽に還る」



このあたりで、

劉柏根や王彌は歴史に現れます。

オマケみたいに劉霊もいたはず。


そういえば、劉柏根と劉霊は同姓。

ありふれた姓ではありますが、

同族だったのかも知れません。


だから、兄弟設定にしてみた。

ハナシの筋が通っていますね。


なんで最初は劉宣にしちゃったのか?

そこんところがよく分かりませんね。



それよりも、かなり時期をイジッてます。

蜀漢滅亡って263年ですから、40年ほど。


いやいやいやいや、

ムリがあるだろー。


容貌を描写しないから気づきませんけど、

やったら、漢将は白髪アタマ勢揃いです。


白日に輝く白髪。


天を震わせる咳。


匂い立つ加齢臭。


まさに老将乱舞。。。



蜀漢の滅亡は263年、

劉淵の挙兵は304年。


実に41年後。


蜀漢滅亡時に十代でも還暦は目前。


劉淵を劉備の孫にして名将の末裔と

成都から脱出させてしまいました。


この設定であるからには永嘉の乱で

老将が乱舞せざるを得ませんわなあ。


『続三国志』には、

シルバー三国志という一面もあるのです。


実写化不可能。

ってか、あんま見たくない。



他にやりようはなかったものかなあ。


匈奴五部に逃れた遺臣たちが

自立を目指す劉淵たちを鍛え、

志を継いで永嘉の乱を起こす、

とか。


劉備の孫が単于の娘を娶って劉淵が生まれ、

蜀漢滅亡を経験した老将から指導を受けて

永嘉の乱を起こす、

とか。


後者なら、

劉淵や相次ぐ老将の死で混乱する北漢の姿と

劉聰以後の史実を重ねられたかも知れません。


血統重視の儒教思想でも、

後者は受け入れ可能かも。


ぶっちゃけ、

前半の時代設定に手を入れてやろうか、

そんなことを考えた時期もありました。



劉柏根、王彌、劉霊は群盗として晋に仇をなした。


酉陽野史はそこから発想し、

蜀漢の劉備と王平の同族に

採用したわけです。


これも『晋書』からのインスパイア。


今日はこれまでとします。

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