2018.8.10怪しいから身元調査をやってみた:劉霊

序だけで放置もキモチ悪いので試しに書いてみようかと思います。


『続三国志』で気になることはままありまして架空の蜀漢遺臣の末裔たちがどこから来たかが気になるのですね。出典があるんだか、ないんだか。


なので、ちょっと『晋書』を調べてみようと思います。

シリーズ化するかは未定。


 ※


当然、ガチンコ漢文読みになるわけですよねー。


序ではゆるゆるの内容を書くように言っていたな?


アレはウソだ。


 ※


劉霊っぽい人は『晋書』ではこんな感じに現れます。漢文は別に読まなくてもいいと思います。


▼は「漢文が始まるよ」マークなんで、見たら読み飛ばし推奨です。


 ▼


『晋書』王彌傳

天下の大亂にかいして洛陽に進みせまり,京邑きょうゆうは大いにふるい、宮城の門はひるなお閉ざさる。司徒しと王衍おうえん等は百官を率いてこばみ守り、彌は七里澗しちりかんたむろす。王師おうしは進みて擊ち、大いに之を破る。彌は其のとう


劉靈りゅうれいに謂いて曰わく、


「晉兵は尚お強く、歸するにく所なからん。劉元海りゅうげんかい劉淵りゅうえん)は昔に質子しちし(人質)と為り、我は之と京師けいし周旋しゅうせんし、深く分契ぶんせつ有り。今や漢王を稱す。將に之に歸さんとす。可ならんか」と。


靈は之を然りとす。乃ち河を渡りて元海に歸せり。


『晋書』孝懷帝紀 永嘉二年

五月甲子、彌は遂に洛陽にあだせり。司徒の王衍は眾をひきいて之をふせぎ、彌は退き走る。


 ※


この記事は永嘉二年(三〇八)のことです。

どうも、王彌の配下には劉霊なる人物がおったようですね。

で。

王彌と洛陽を攻めて一緒に王衍に返り討ちにされます。


そんで進退に窮した王彌と劉霊は一緒に劉淵に降ったということです。


劉霊が漢に従うよう王彌を説得したというのはあながち間違っていない??

いや、そんなことはないか。でもまあ、史実をほんのりと反映していますね。


 ※


で、その後どうなったか。また漢文。


 ▼


『晋書』石勒載記

元海は劉聰りゅうそうをして壺關こかんを攻めさしめ、勒に命じて統ぶる所の七千を率て、前鋒せんぽう都督ととくたらしむ。劉琨りゅうこん護軍ごぐん黃秀こうしゅう等を遣して壺關を救わしむ。勒は秀を白田はくでんに敗りて秀は之に死し、勒は遂に壺關をとす。元海は勒と


劉零りゅうれい閻羆えんゆうら七將に命じ、眾三萬を率て魏郡ぎぐんに寇せしむ。


頓丘とんきゅうの諸々の壘壁しょへきるいは多く之に陷る。壘主に將軍、都尉をし、強壯五萬をえらびて軍士と為す。老弱は安堵すること故の如し。軍に私掠無く、百姓は之になつく。


 ※


劉淵が劉聰に壺関を攻めさせた折に石勒が先鋒となって落とし、奪還に向かった黄秀をも打ち取ったと、その後、壺関から劉零をはじめとする七将に魏郡を攻めさせたって話です。


ここで言う「劉零」がどうも先ほどの「劉霊」であるらしいです。

文盲の人は音だけで判断しますから、同じ音の字を使うのはよくあることです。


韓陵山=寒陵山とか。


たぶん、この劉零または劉霊さんは、字が書けなかったんじゃないですかね。


で、その劉零または劉霊さんは劉聰に従っており、劉淵に降った後も頑張っておられたわけです。が、どうも二年後には力尽きて、祁弘に討ち取られたっぽい。


 ▼


『晋書』孝懷帝紀 永嘉四年

夏四月、大いに水あり。將軍の祁弘きこうは劉元海の將の劉靈曜を廣宗こうそうに破る。

[校注]

劉靈曜は『資治通鑑』巻八七に「劉靈」と作り、「曜」の字無し。『晋書斠注しんじょかくちゅう』は『太平御覽』巻三八六に引く『趙書』に劉靈有りて元海の將と為すにり、因りて此の「曜」の字はえんなりとう。あんずるに、石勒載記に劉零あり。即ち此の人なり。此の「曜」の字はけだし衍文ならん。


 ※


本文は短いのに校注が長い。。。校注は要するに文字の校正を行った記録ですね。

ちなみに、衍字は要らない文字、衍文は要らない文を言います。


ここでは、祁弘に劉靈曜さんが破られたと言っているだけです。

で、その劉靈曜さんは他の史書では劉靈と書かれていた、と。


まあ、劉霊と劉曜をフュージョンさせたのであろうと予想はつきますね。

なんで、劉霊=劉零=劉霊曜でよいのでしょう。


これより先に劉零または劉霊または劉霊曜さんの記録はなく、おそらくここで祁弘にプスッといかれてしまったのでしょう。


ちなみに、祁弘もこの後、それほど長生きできません。


 ▼


『晋書』王浚傳

其の後、浚は天下に布告し、中詔ちゅうしょうを受けて承制しょうせいすとしょうし、乃ち司空しくう荀藩じゅんはんを以て太尉たいいとなし、光祿大夫こうろくたいふ荀組じゅんそ司隸しれいとなし、大司農だいしのう華薈かわい太常たいじょうとなし、中書令ちゅうしょれい李絙りこう河南尹かなんいんとなす。

又た祁弘を遣りて勒を討ち、廣宗に及ぶ。時に大いに霧あり、弘は軍を引きて道に就く。にわかに勒と遇いて勒の殺す所となる。


 ※


こうして見ると、劉霊を破った後、霧の中で軍勢を出して石勒に出会い、あっさり殺されてしまっております。


二人とも永嘉四年(三一〇)に戦没している。


『続三国志』では劉霊と祁弘は二人まとめて王浚に射殺されていますが、その因縁は『晋書』の記載から考え出したものみたいです。


二人の死が連続していたところから来たものなのでしょう。


どうも、作者の酉陽野史ゆうようやしさん、ちゃんと『晋書』を読んでインスパイアされたっぽいですねー。


 ※


とりあえず、

・劉霊のモデルはいた。

・王彌との友情と戦死は史書からインスパイアされているっぽい

という感じにまとめると、いい感じでしょうか。


本日はこれまでとします。

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