1.4

 宮殿という陰謀渦巻く戦場でサコたちが口を使った壮絶な戦いをしている時、ログハウスには平和な朝が訪れていた。

 綺麗な空。

 差し込む優しい日差し。心地よい風。


「はぁぁぁあぁぁぁぁぁぁい!!!!」


 ユキコは腕にとんでもない痛みを感じて目を覚ます。

 目の前には色々な資料が並べられた棚がある。

 どうやら診療机に突っ伏して寝ていたようだった。

 口の周りを汚す、大量のヨダレを拭こうとして悲鳴をあげる。


「いたたたたたたたたたたたた!?」


腕が上がらない!!


 一瞬、獣化症の症状を疑ったユキコ。だが、それは杞憂だった。

 体のどこからも毛は生えていない。

 単純に手が痺れたのだ。

 両腕いっぺんに痺れてしまったユキコは口の周りにへばりつくヨダレを拭かずに突っ立っていた。


「おはよう。ユキコ。うわっ!あんた汚いわよ。それが姫様流の上品さってわけ?」


「ちがうやーい!!!!ちょっとミヤコ、ちょうどいいところにきたわ。拭いてよ」


「いやよ、さっさと井戸に行って、顔洗ってきたらどう?」


「あーい」


 ユキコは井戸に行く前にユウトの様子を伺う。

 昨日までの悪い顔色はなくなり、徐々に血色の良い顔に戻りつつあった。

 全身は相変わらず謎の軟膏で真っ黒だったが。

 ユキコは手の痺れを感じないようにそっと、ゆっくりと歩き井戸まで進む。


「やぁ、お姫様?」


「あいやぁぁぁぁぁぁぁ!エルザきさまぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 エルザはユキコの肩に乗っかっていた。

 ユキコの鳥を絞めたような悲痛な叫びがログハウスに響き渡る。

 すぐにミヤコからの怒号が飛んでくる。


「うるさいよ!ユキコ!患者が寝てるんだ!

 静かにできないならモリガニの餌になってもらうよ!」


「モリガニは勘弁!」


 ユキコは自分の両腕をブンブン振り回し、血を通わせる。

 しばらく痛いがこうした方が痺れは早く取れるはず。


「んんんんんんんんんんんん!!」


「えいっ」


「あいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 エルザの猫パンチは見事、ユキコの左手の甲を捉えた。

 ユキコは本気でエルザを睨みつけているがエルザは澄まし顔で井戸の淵に座る。


「にゃはは、ユキコ、面白いね」


「うっさい!!」


 ユキコはそう吐き捨てると、井戸水を組み上げる。

 それを待っているエルザにぶっかけて鬱憤を晴らす。

 けれども、エルザはそれを待っていたらしい。


「ありがと〜」


 エルザはびしょびしょのままログハウスに戻る。

 体を舐めて綺麗にするつもりらしい。


 ユキコはもう一度組み直した桶を覗き込む。

 いつもの綺麗な自分の顔が映る。

 口元はよだれで光っている。

 ふぅと息を吐きながらひとすくい顔に当てる。

 井戸水の冷たさが、朝の気持ち良さを思い出させてくれる。


「ちょっと!エルザ!あんた、なんで濡れたまま、入ってくんのよ!」


「細かいことは気にしちゃだめよ。大人のれでぃになれないわよ」


「エルザは猫のレディでしょうが。大人っていうのは大きな人間という意味。

 あなたは当てはまらないわ。とっとと外に出て体乾かしてきて」


「屁理屈言うなぁ」


「あんたほどじゃないわ」


 ログハウスの中から聞こえてくる会話にユキコはクスクスと笑う。


「はぁ、久しぶりに最高の気分だわ」


 宮殿の中で話す相手はほとんどが自分より下の階級の人間だった。

 その全てが自分のご機嫌を伺い、踏み込まず、表面的に心地の良いことばかりを話して去っていく。

 いつも、相手の発言の裏を考え、意図を読み、様々なパターンを考える日々。


 正直人と話すことほどめんどくさいことはなかった。

 発言一つで立場が変わりかねないのだから。

 だが、ここではそんなこと一切きにする必要はない。

 みんな自由に話し、自由に突っ込む。


 桶の水面に映る自分の顔を見てさらに笑ってしまう。

 

——こんな何が起きているかよくわからない時なのになんて楽しそうなのかしら、自分。

 ふと、自分が履いているスカート、正確にはその中を透かし見て一人言をこぼす。


「……そういえば、何か、履くもの用意しなきゃ……」


「ユキコ!よだれを洗い流すのにどんだけかかってるの!!

 とっとと戻ってこないと朝ごはんあげないわよ!」


「はいはい!!」


 ユキコは顔を振って水気を飛ばすとそのままログハウスの中に入る。


「あんたも!乾かしてから入ってきなさい!」


「あうっ!」


 タオルを顔に投げつけられるユキコ。

 その顔は笑顔だ。

 外に出てエルザの隣に陣取ると顔を拭き、深呼吸をする。


「あら、あなたも大人のレディにはほど遠いってわけね?」


「私、大人のレディになるつもりないわ。むしろその反対に歩いてるわ」


「えっ?幼児退行!?」


「ピンポーン!」


「わかるわぁ〜。私も、幼児に戻りたいっ」


 ユキコとエルザはニンマリと笑い合う。猫と人がわかりあった瞬間だった。


「はい。朝ごはん。エルザはクリスの分も持っていってあげて」


「あいあい」


 エルザはそう言いながらクリスの分を運ぶ。

 彼女は間違いなく途中で半分くらい食べてしまうつもりだろう。


「朝ごはんって草ばっかりなのね」


「文句あるなら食べなくていいわよ」


「わーい、草大好き〜!これは何の実かなぁ〜」


「それはきのこ。木の実じゃないわ」


「…………きのこおいシ〜」


 ユキコはバリバリむしゃむしゃと目の前にあるサラダを平らげる。

 横にあった薄い焼き色のパンも速攻で平らげる。


——味?よくわからないわよ。薄味すぎるわ。

——強いて言うなら紙食べてるみたいだわ。

——でも文句言ったら食べさせてもらえなくなっちゃうじゃない。

——飲み物は水だし。味という概念からは程遠い食事。

——いや、食事というより栄養補給ね。機械的だわ……。


 キッチンのあるダイニングはシンとした雰囲気の中、ミヤコがシャキシャキとした野草を食べる音で満たされた。

 そこへ、クリスがやってくる。


「ミヤコ。黒い軟膏を塗っていた方が目を覚ましました」


「ユウト!?」


 ユキコは食器を速攻でキッチンの流し台におくと、診察室へと直行する。


「あ、ちょっと!」


 ミヤコはそう言いながら食べかけの物を放置して診察室へ向かう。

 診察台の上にはエルザが座って様子を伺っていた。

 薄く目を開けたユウトは寝転んだままエルザの顔を見ている。


「ユウトが目を覚ましたわよ」


「もう知ってるわ」


 エルザの報告をミヤコはあっさりと聞き流す。

 ユキコはユウトの顔を覗き込むと言う。


「傷はどう??体調は??記憶はある?」


「……そんないっぺんに聞かれても答えられない………。

 とりあえず、命は助かったみたいだ。

 あの牢屋の中にあと一日でもいたら病気になって死んでいただろう……。

 助けてくれたのは……ユキコか?」


「いや、私はあんまり何もしてないわ。助けてくれたのはこっちね」


 ユキコはそう言ってミヤコを紹介する。

 ミヤコは特に何かするわけでもなくユウトの顔をまじまじと見つめている。


「……そうか、ありがとうございます。顔も知らないのに………助けてくれて…」


「いえ。あなたを助けたくて助けたわけじゃないわ。

 助けてほしい人がいるから助けたの」


「……ああ。俺の能力を知ってるんだ。

 なるほど、なら、すぐ助けよう。患者はどこに?」


 すぐに立ち上がろうとするユウトに対してユキコは慌てる。


「ちょっと、大丈夫なの?まだ、ユウト自身、ボロボロなのよ?」


「自然治癒力とEEは別物だから、大丈夫……。

 俺は俺自身の怪我をEEで治すことなんてできないからな………。

 そういえばユキコ、君の獣化症は?」


「私はちょっと、勝手にあなたの“ギフト”使ってなおしちゃったわ」


「そうか、良かった……。あの日はずっとうさぎになってたのか?」


「まぁね……、あの日の、朝はごめんね、実験中だったんだ。

 会いに来てくれたのはわかってたんだけど。

 獣になってしまうのがどんな感じなのか、知りたくて…………。

 知らせたら速攻で治しちゃうじゃない?」


「いや、いいさ。でもそれなら教えておいて欲しかったな。

 実際、俺はこの国を去るつもりだったんだから」


「えっ!?!?なんで!?」


「君に見捨てられたら俺はもう頼るものがない。この国に居る意味がなくなるんだ」


 ユキコは神妙な面持ちでユウトを見ている。

 いつの間にか、自分の存在が目の前の青年の心の大部分を占めてしまったことに、初めて気がついたのだった。

 ユキコは自分の頬が赤くなるのを感じていた。


 ユキコは少し顔を下げて頬を隠す。

 不謹慎ながら嬉しくなっていた。

 だが、そんなこと口が裂けても言えない。恥ずかしすぎた。


「全く、私をもっと信じてよ!

 うさぎになった時、ほんっとーに怖かったんだから!!」


 そう言ってユキコはユウトのかたをバシッと叩きつけた。


「すまない……」


 ユウトは少し微笑を浮かべながらユキコを見る。


「ねぇ、患者診てくれるの?」


 ミヤコの冷たい声。ユキコはユウトに肩を貸しながら、ユウトを立たせる。


「もちろんだ…、患者はどこだ……?」


「こっちよ」


 ミヤコはスタスタと自分の部屋に案内する。

 クリスやエルザはミヤコの足元をうろちょろしている。

 ミヤコの歩みを器用に避けながらも足元にへばりついている。


「これよ」


 ミヤコは部屋の中にいる獣をユウトに示す。ユウトは見た瞬間に理解する。


「獣化症だ……!!」


「ユウト、治せる?」


 ユウトは顔をしかめる。


「俺の治療の能力のこと知ってるだろ。

 俺の能力は原型を知っているものにしか使えない。

 『治療』の“ギフト”は厳密には『復元』だ。

 復元は元の形を知っていてこそできる技だ。

 そして、その元の形というのは俺の概念で形成される。

 知っているものじゃなきゃ治せない」


 ミヤコはユウトに迫ると言う。


「できるのか?できないのか?

 ではない。私は危険と言う対価を払ってあなたを助けた。

 あなたはその対価に報いるべきよ」


「頼んでないぞ」


「じゃあ、今すぐ死ぬ?」


 ミヤコはすっと目を細めると、戦闘態勢をとる。

 ユウトはその様子を見ても微動だにしなかった。

 好きにしろとも言いたげだった。

 ユキコはそんなユウトをすこし揺さぶりながら言う。


「触ってみるだけ触ってみればいいじゃない。

 もしかしたら治っちゃうかもしれないよ?」


「……わかったよ」


 ユウトは眉をひそめながらもゆっくりと獣に近づく。

 獣は鎮静剤により深く眠っている。

 ゆっくりと獣の手にあたる部分に手を伸ばす。


「じゃあ、さわるぞ?」


「うん」


 ユキコ、ミヤコ、エルザ、クリスはゴクリと唾を飲み込む。


「……………………おら」


 ユウトはとんっと獣に触れた。


 途端に獣からまばゆい光が溢れ出す。

 同時に鎮静剤で眠いっていたはずの獣はギンッっと目を見開くと口を大きく開けて叫び出した。


「あああああああああああああああああああああああああああああ」


「すごい叫び声!!!!」


 両手で目を覆い光から目を守っていたミヤコは驚く。

 この治療法でも痛いものは痛い。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!超眩しい!!!!」


 ユキコはそう叫ぶ。

 だが、顔を覆うにはユウトに肩を貸しているせいで片手しかない!


「なんだ!?!?!?俺の知っているものなのか!?!?」


 ユウトは大きな声で叫んでいる。

 まばゆい光のせいで顔が見えないが驚いている表情を浮かべているに違いない。


「すごい………!!!!」


 ミヤコは獣が治る様子を見ようと必死だった。


 うっすらと見える範囲で、ミヤコは獣が徐々に人へと戻るプロセスを見ていた。

 獣らしい骨格が人の骨格へと戻り、表面を埋め尽くすように生えていた毛は収まり人らしい、全身が薄い体毛になる。

 獣の頃に培っていた筋肉が人体にそのまま反映されている。

 全身に見事な筋肉がついている。


 全身の傷跡がこれまでの生活の壮絶さを物語っている。

 一つは心臓のすぐ横を爪のような鋭利なもので切り裂かれた傷が残っている。

 間違いなく命を削られるような戦いをしてきたことを示している傷跡だった。

 ミヤコは獣の肉体のボロボロさを見て驚く。

 自然界でこれだけ傷をつけてしまうと、どこかの段階で傷から菌が入ってしまったり、傷だらけの時に血の跡を探知されて殺されるのだが。


 相当強い個体だったに違いない。

 ミヤコは話しかけようとユウト、ユキコを見る。

 二人は元獣の男を見て固まっていた。


「えっ、何で……?」


「どう言うことなんだ……??」


 二人の表情は一言で説明できないほど複雑だった。

 喜びもあり、悲しみもあり、そして恐怖すらあった。

 ユキコは目に涙をためている。

 それをどう発散させたらいいのか迷っているようだった。


「ね、ねぇユウト、これ、どう言う意味だと思う……?」


「まったく、わからない……。何が起きているんだ……?

 一体、この国で何が起きているんだ………!?!?

 こいつは一体誰なんだ!?

 いや、宮殿にいるあいつがおかしいのか!?!?!?

 どうして、どうしてこんなところにっっ!!!!」


 ユウトは元獣の男を凝視して叫ぶ。


「どうしてここに、カントがいるんだぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?!?」

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