2.4

 だが、ユキコの心配は杞憂に終わる。

 女は赤い塊を衛兵に投げつけるが、途中で火が消えてしまった。

 衛兵は何気なくそれをキャッチする。


「なんだこれ?」


「アルシアの花と水をかき混ぜ、原型を無くし固めた物よ。

 効果はあなたたちが身を持って知ることになるわ」


「だが、何も起こらないじゃないか」


 その瞬間。赤い塊はぽんっと弾ける。

 地下牢の入り口がピンク色の煙に包まれる。

 すぐに二人の衛兵はばたりと倒れる。


——毒!?


 ユキコは遠目に衛兵の安否を確認する。


——胸は……。動いている。呼吸をしている。


 ユキコの心配を察したかのように女が効果を説明してくれる。


「アルシアの花は森の窪地に咲く赤いふんわりとした花。

 自分の根っこで大きなくぼみを作り、そこに迷い込んだ動物を自前のEEで作り出した催眠ガスで獲物を眠らせゆっくり食らう肉食植物。

 そのガスを吸った生き物で寝ないのは妖精くらいよ。

 森の産物をナメないことね」


 女はそういうとピンクのガスが晴れた地下牢の入り口に悠々と入る。


 ユキコは迷う。早速想定外だった。


——どうしよう。なんか、変な事件に巻き込まれそうなんじゃないの、私……?

——でも、ユウトを助けるなら好都合かも。

——申し訳ないけどあの女に便乗させてもらうしかないわね。


 ユキコは木から静かに降りると地下牢への階段を下り始めた。


 地下牢の中は暗く冷たかった。

 一歩一歩靴音を鳴らして歩く音が、壁の乾いた冷たい石に反射され、いつまでも反響しているように聞こえる。

 それだけで、気の小さいものはここに入ることを忌避する。

 王宮の牢獄は普通の犯罪者が入ることはない。

 政治犯、または連続殺人などの重罪を犯した人間のみ。

 ある意味で選ばれし犯罪者が入る。

 そんな地下世界には鬱屈とした停滞の空気が充満していた。

 恨み、諦め、怒り。人の負の感情が充満する息苦しく重たい雰囲気。


 ユキコは地下牢の天井をぶら下がりながら移動する。


——こうしてぶら下がりながら移動するのはちょっと苦手かも……。

——しかも、天井の梁、太すぎる……!掴めないわ。


 ユキコは落ちないよう慎重に進んだがすぐに猫に乗った女に追いついた。

 猫に乗った女は地下牢の雰囲気に全くそぐわない花の匂いを振りまいている。

 銀色の猫の方はのっそのっそと歩く。

 他人の事情なんて知ったことではない、全身でそうアピールしているようだった。

 地下牢にいる犯罪者たちは普段感じられない女の匂いに鉄格子にへばりつく。


「ああ、いい匂いだなぁ……。

 女の匂いだ。久しぶりダァ……ここに入ってこいよォ」


「おい、そこの女、ここに来いよ。バラバラにしてやるから」


「あら、まだ、手をつけられてない女の子。

 私があなたのハジメテ、もらってあげるわよ?」


 ユキコは反射的に鼻を摘んでしまう。


——ここには世の中の腐臭が溜まってる……!


 地下牢は入り口に軽犯罪、進めば進むほど重罪人が入っている。

 けれど、その構造はとても複雑だった。

 これも宮殿のシステムの一部であり、一日たりとも同じ構造になることがない。

 昔の人の“ギフト”によって常に地下の構造が変化するようにしてあるのだ。


 ただし、その構造の変化はかなり無茶なものもあり、つなぎ目がおかしなことになっていることも……。

 

——あっ、言わんこっちゃない。


 銀色の猫は足元の大きな段差に引っかかって転ぶ。

 上の女が慌てて猫を掴む。


「ちょっと、エルザ!しっかり歩いてよ!猫なんだしそんなふらふらふらふら!」


——猫はエルザって言うのね。あんまり聞いたことのない名前……。

——それにしても猫と会話するなんて、一体どんな“ギフト”なの……?

——そんな人がこんなところになんの用なのかしら。


「え?匂いをたどりながらだと足元がおろそかになる?

 そんな犬みたいなことしてないでしょ。

 あんた、EEの残滓で探してるはずなんだから」


 エルザと呼ばれた猫は女の顔の方を見上げて怒ったような顔をしている。


「何を怒ってるの。

 早く、獣担っていた人を元の人の姿に戻した人のところに案内しなさい。

 こんなに人がいるところなんていたくないもの。さっさと連れて帰るわよ」


 ユキコは思わず手を離しそうになった。


——ちょっと!この女の探してる人、ユウトじゃないの!


 ユキコは梁の上に登ると思案する。


——どーーーしよぉぉぉぉぉぉぉぉ!なによ、この状況!あいつ、何者なの!?

——なんでユウト狙ってるの?一体なんなの!?狙いは!?


 ユキコの迷いをよそに、エルザは迷いなく歩き続ける。

 ユキコはエルザたちについていくしかなかった。

 そして、ユキコの想像通り、エルザとその上にいる女はユウトを目指して歩いていたのだ。


 猫の歩みがある牢屋の前で止まる。

 部屋の中から人とは思えない匂いが漂ってくる。

 アンモニア、尿素、酪酸。刺激臭、腐卵臭。

 人から出る臭さを全て凝縮したかのような匂いだった。


——ここにユウトがいるの?


 ユキコはその願いを込めてエルザを見る。

 エルザはすっと腰を屈めると背中に乗せた女を下ろす。

 どうやらエルザは背中に乗っている女のことをかなり敬っているらしい。


 女はそのまま歩くと鉄格子の前に跪く。

 そして、ポーチからガラスの瓶を取り出す。


「イモタルサスの蜜。強烈な酸を作り出し金属を溶かす」


 そう言って女は鉄格子のガラス瓶の中身をかける。

 ジュワーという音が鳴り、大量の気泡を発しながら鉄が溶けていく。

 ユキコはその様子をじっと見ている。


——植物の知識がすごいわね……。

——イモタルサスなんて図鑑でしか見たことないわ……。


 そして、あっさりと鉄格子が溶かされる。

 女は人が簡単に通り抜けるほどの穴が空いた鉄格子を潜ろうとする。

 間違いない。ユウト狙い!ユキコは意を決して飛び出す。


「—————————————!!!!!(ちょっと待ったぁぁぁぁぁ!!)」


——ぬあああああああああああ!私、声が出ないんだったぁぁぁぁ!


 鉄格子の前で手のひらを女に見せながら仁王立ちするユキコ。

 明らかに必死の形相を浮かべ口をパクパクしている。

 出したくても掠れた声しか出ない。

 だが、女の対応は単純だった。

 溶かして外れた鉄格子を一本拾い上げるとユキコに襲いかかった。


 元鉄格子の鉄棒ははまるでしなった竹のように見える速度でユキコへ迫る。

 しかし、ユキコは気がつく。

 鉄棒が自分の弱点にほぼまっすぐ向かっていることに。


——狙いすごい、なんて正確な攻撃!でも、逆に狙いがバレバレよ!


 ユキコはワニ皮の手袋で女の攻撃を弾き飛ばすと、女の顔めがけて拳を叩き込む。

 女はそれをひらりとかわすと鉄棒を振りかぶる。

 ヒュンという風切り音がなる。

 ユキコはそれをかわして次の攻撃に移る。

 二人とも足をほとんど動かすことなく、攻防を繰り返す。


 お互いやましい状態。衛兵などが来られては困る。

 そのためその場から動くことなく、音を立てずに相手を始末する必要があった。


 けれど、戦闘状態は膠着(こうちゃく)する。

 ユキコは持ち前の素早さで相手の攻撃を弾きつつ拳を叩き込もうとする。

 女の方はユキコのスピードに少し翻弄されつつも、すべての攻撃を鉄棒で受け切り、その切り口でユキコに致命的な一撃を与えようとしていた。

 “ギフト”なしの実力は拮抗している。


——このまま、戦闘が長続きするのは良くない!


「—————————————!!(身体強化・レベル2!)」


 ユキコは白いEEのオーラを発する。そして、相手を見る。


 女の方は鉄棒をブン!っと横に振り抜く。

 それだけで、全身に淡い緑色のEEをまとった。

 そして、攻撃は女が先制した。

 ユキコにはかろうじて見えた高速の斬首攻撃。

 首のそれも骨の隙間を正確に狙った水平の一撃。


——狙いが正確どころの騒ぎじゃないわ!

——私の弱点に鉄棒が吸い込まれてくるみたい!

——狙いがわかっているのに避けきれない!

 

 ユキコはギリギリで体をそらして攻撃をかわす。

 ユキコはそのまま腹筋の力を最大限に使い、バネのような要領でエビゾリしていた体を元に戻す。


——頭突きくらえ!

 

 だが、女はそれを読んでいた。

 相手も頭を突き出してくる。

 鈍い音がしてお互いが頭を付き合わせる。

 女の方は赤い血が、ユキコの方は化粧が混じり黒い血が流れる。

 だが、それを見た女は言う。


「あなた、人?」


 ユキコは少し黙っていたが、声でないけど一応答えなきゃという、礼儀を叩き込まれた育ちの良い娘を発揮して答える。


「————————!?(人以外に見える!?)」


「ふーん。なら殺さなきゃダメかな」


——あれぇぇぇぇぇ!?通じた!?!?


 ユキコは衝撃を受ける。サコやチコは私の言葉を全く理解しなかったのに!


「———!—————————!(ちょっと待って!なんで私の言うことわかるの!)」


「ええ?聞こえてるからに決まってるじゃない。何言ってるの?」


 ユキコと女はしばらく睨み合う。

 すると、ゆっくりと女の後ろにエルザが回り込んで言う。


「ミヤコ。この人、混ざってる。すごくいびつな匂いがする。

 人と獣どちらの匂いも持っているわ」


「混ざってる……?それは一体どういう状況なの?」


「私にもわからないわ。

 でもこの人は人のように見えて獣のようでもあるってことよ」


「そんな人間がいるの……?いや、でもあの人も……」


 ミヤコと呼ばれた女はユキコを凝視する。

 だが、ユキコは銀色の猫の方を凝視する。


「喋った……」


 ユキコのつぶやきにエルザは答える。


「そりゃ喋るわよ。何?人だけがおしゃべりしていると思ったら大間違いよ」


「それはそう……なのかもしれないけど!あなたも私の声が聞こえるの?」


「当然じゃない。あなたが喋れば私に聞こえる。世の中の真理よ」


「そうだぞ。お嬢さん!」


 場違いなダンディー声がひどい匂いの牢屋に響く。

 ミヤコのブラウスの中から青い小鳥が顔を出す。

 ユキコはきゅんとハートを撃ち抜かれる。


「なんて可愛らしい!」


 だが、小鳥はショックだったらしい。


「おいおいおいおい!お嬢さんよぉ!

 この俺を可愛いとは一体どんな目してんだよ!」


「私は常識的な回答をしたまでよ!」


「それは、人にとっての常識だろ?

 このワンダ様そんな意味不明な一般論を受け入れたりしないぜ」


「違うわ。私にとっての常識よ。私が可愛いといえばそれは可愛いの」


 ユキコの冷静なツッコミ。

 ワンダは左の翼の先をくちばしに当てて、考え込むと言う。


「これは一本取られた。確かに。お嬢さんの言う通りだ。

 お嬢さんの常識であって人の常識ではない」


 ミヤコはそんなワンダをむんずと掴むと空へ放る。


「ちょっと、出口の方の索敵してきて」


「らじゃ」


 ワンダは素直に飛んでいく。

 ダンディでエレガントな雰囲気はこの時ばかりはなかった。

 ミヤコはユキコの方を向くと言う。

 ユキコは相変わらずミヤコの行く手を遮っている。


「それで?私はその奥の男に用があるの。どいてくれるかしら。半獣の女」


「この男、どうするつもりなの?私にも必要なんだけれど」


 エルザは手を口に当ててにゃっにゃっにゃっっと笑うと言う。


「あら、彼はモテモテね。

 今の彼は、スラム街のゴミ溜めよりも濃密な刺激臭が彼を包んでいるけれど。

 ひどい扱いね。傷だらけなのに。

 あのままじゃ、近いうちに病気になって死ぬわね」


 ミヤコの決定に従うと最初から決めているエルザは気楽なもんだった。

 ただ、ユキコから見ると、隙など全くなく、ミヤコがユキコを殺す決定を下した瞬間、喉笛を噛み切られるような予感が拭えない。

 ユキコは冷や汗を流しながら聞く。


「彼を連れて言ってどうするの?」


「病気を治してもらう。獣になった人がいる。……私では治せない」


 最後の一言には噛み締めた何かがあった。


——この人、誰かを助けようとしているんだ……。


 その時、ユキコとミヤコは同時に地下道の来た方を見る。

 そして目を合わせると言う。


「私はこの男を連れていく。あなたは半分だけだけれど人じゃない。

 それなら大丈夫。私と来る?」


 ユキコは迷う。得体の知れない女。だが、人の命を救うためだと言う。

 色々聞きたいこともあるが、今はあまり迷っている余裕がなかった。


「……いくわ。しばし、協力しましょ」

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