第62話 電撃引退という幕引き。
白石との連絡が途絶されてから、一週間近く経過していた。
黒瀬の見えない焦りは、自身の生活さえも疎かにしていく。
会えないことが、こんなにも精神的に堪えるとは思わなかった。
結局、あの冬馬さゆという女は、白石の引退報道と同日に、体調不良による無期限の活動休止を発表し、逃げた。
周りを巻き込み、散々引っ掻き回して、何がしたかったんだ。
緑川も当てにならない。
居場所が分からない。これ以上は探しようがない。と、やけにあっさりと身を引いた。
白石に対する想いは所詮、その程度だったのか。
どいつもこいつも。
苛立ちを制御出来ず、握り潰した空のペットボトルを壁に叩きつける。
乾いた音を立てて、ペットボトルは床に落下した。自暴自棄を自覚している黒瀬は呟いた。
「……こんなんじゃ駄目だな」
あの時、強引にでも引き留めて、白石を自分のものにすれば、こんなことにはならなかった?
それじゃ、あいつの思いはどうなる?
あいつの感情を無視してまで、自分のものにしたところで、そんなのはただの自己満足だ。
白石の本当の気持ちを聞かなければ意味がない。
最初から分かっていた。
「あいつに会いたい……」
明かりを消した部屋で、黒瀬は壁に寄りかかり、静かに独りごちた。
───────
「そろそろ準備が出来そうよ。銀次」
行きつけのバーで、九十九院はカクテルを片手に、A4サイズの茶封筒を銀次に手渡した。
「ああ、ありがとう。助かったよ、本当に」
銀次は数枚の書類を取り出し、内容を確認する。
「うん。じゃあ後はサインをして終わりだね」
「名前はどうするの」
「もう決めてあるよ」
「今はまだ言わないのね」
九十九院はカクテルに口をつけようとして、止める。
「まあ、門出だからね」
「そう」
今日の九十九院はやけに口数が少ない。
カクテル程度で酔う彼女ではないが、何か思うことがあるのかもしれない。
憂いを帯びたような横顔が、バーの暗めの照明によって、さらに美しさを演出していた。
「白石くんの様子はどうかな」
「あの子なら平気よ。と、言いたいところだけど、やっぱり目に見えて元気はないわね。それについても、銀次はもう決めてあるのよね?」
「もちろん。人の恋路を邪魔したら馬に蹴られるって言うだろう」
「あら? 銀次はいつも私に蹴られてると思うけど」
「いや、あれは蹴られてるんじゃ──何でもないです」
銀次は言い掛けて止めた。
九十九院は今日もピンヒールを履いている。やはりあれは凶器の一種だと彼は思う。
力任せに踏まれようものなら、本当に骨が折れてしまうに違いない。一応手加減はしているようだが。
こちらの現状と言えば、黒瀬本人もそろそろ限界のようだ。
せっかくのイケメンが台無しになるくらい、堕落した生活をしている。
仕事をしていれば、少しはまともかもしれないが、現在の黒瀬はフリーの立場で、活動をしていることになっている。
故に、オファーもオーディションも枯渇状態だった。
彼が事務所の寮に住まい続けているのは、きっと、何時か彼女が戻って来るかもしれないという淡い期待を抱いているからだろう。
それなら、身なりくらいは整えて欲しいものだ。
無精髭に目元に影を落とした隈は、はっきり言って見ていられない。
「さあ、最後の仕上げといこうか」
銀次はグラスを掲げ、九十九院もそれに応えるようにグラスを傾けた。
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