第61話 先手必勝。


「あら、とても素敵よ。ゆらぎちゃん」


 美容室の鏡越しに相手に微笑まれ、ゆらぎは心臓は激しく鼓動する。


「と、とんでも……ない……です」


 嬉しさか、恥ずかしさか。やっとのことで、ゆらぎは俯き答えるも、その語尾は殆ど消えかけていた。


 何故なら、今、彼女の目の前にいるのは、憧れのあの人。


 ──九十九院トキだからだ。

 

 どうしてこんな状況になっているのかというと、ゆらぎの男装の為に切り揃えていた髪は、今では中途半端に伸びて、少し野暮ったい雰囲気になっていた。


 そんな彼女を見かねて、九十九院はゆらぎを美容室へと連れてきていたのだ。


 思い切って、今回は髪の色を少し明るいミルクティーブラウンに染め上げた。


 纏っていた暗い雰囲気も、パッと華やぎ、女性らしい柔らかさに包まれる。


「やっぱり、私の見立てに間違いはなかったわね。今のこの姿で黒瀬に会ったら、彼、卒倒するんじゃないかしら」


 悪戯めいた笑みで、九十九院は満足気に頷く。口許に手を当てる仕草はとても妖艶で、美しいなんて言葉だけでは表せないのではないかと、ゆらぎは惚けたままに思う。

 

 おそらく、そう思っているのはゆらぎの憧れフィルターのせいだと思うが。




 事務所を退所した後、行く当てのないゆらぎを快く迎え入れてくれたのは、田中社長の姉でもある九十九院トキだった。


 ほとぼりが冷めるまでの間。という期間を設けられ、ゆらぎは黒瀬の目の前から姿を消した。


 それは、田中社長の提案でもあり、作戦でもあったのだ。


 本当は事務所を辞めた後、このまま独りで、安いアパートを探して、アルバイトをしながら、しばらくは食い繋いでいくつもりだった。


 けれど、ゆらぎのそんな甘い考えを、一蹴したのは九十九院で、いくら感謝をしても足りないくらいだ。本当に私なんかが、お世話になってもいい相手なのだろうか。


 とても畏れ多くて、その提案を最初は辞退していた。しかし。


 『女の子をこの東京ジャングルに放り込んで、独りサバイバルさせるなんて、あり得ないわ。私の夫も貴女が来ることを賛成しているし、いいじゃない』


 有無を言わせない九十九院の言葉だったが、独りになる寂しさを感じていたゆらぎにとって、心に染み入るその優しさは、普段固く閉ざされていた涙腺を、意図も容易く崩壊させた。


 なんで私なんかに、こんな良くしてくれるんだろう。


 そんなゆらぎの心を見透かしたように、九十九院は言葉を続けた。


 『それに、こうなったのはバカ弟のマネジメント不足、経営者としての不測の事態を想像出来なかったことが原因でしょう? なら、姉の私が責任をとるわ。銀次には色々と言いたいことが山程あるもの。ねぇ? 銀次』


 『……返す言葉もございません。元はと言えば、僕が白石くんを男性声優として育てようとしたことが原因だ。君を女性声優として売り出していたら、こうはならなかったと思っている。本当に申し訳ない』


 田中社長に深々と頭を下げられ、ゆらぎは酷く動揺していたのを、今でも覚えている。


 誰が悪いわけでもない。


 私の詰めが甘いせいで、この結末を向かえただけだ。我ながら自業自得だと思う。


 でも、これで良かった。


 いずれは明るみになる事実。それが、少し早まっただけで、むしろ予定調和だったのかもしれない。



「……ゆらぎちゃん。大丈夫?」


 ゆらぎを深い回想の海から引き揚げたのは、九十九院の美しい声音だった。


 ハッとし、顔を上げて九十九院を一瞥する。


 彼女は心ここに在らずな、ゆらぎを心配そうに見つめていた。


「すみません。大丈夫です。」


「そう。なら良いけど。あ、私これから用事があるのよ。だから、合鍵を渡しておくわ」


「え? 合鍵? でも、勝手には……」


「大丈夫よ。見られて困るようなものは何もないわ。銀次に伝えておいたから、そろそろ迎えに来ると思う。それじゃあね。ゆらぎちゃん」


 微笑を浮かべ、ピンヒールをこつこつと鳴らしながら、颯爽と美容室を後にする九十九院の後ろ姿を眺めていた。

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