第56話 キスの味と感触。
「黒瀬先輩、辛いの苦手なんですね」
黒瀬先輩の大袈裟なリアクションを見ていると、思わず笑みが溢れて、先ほどまでの憂鬱な気分は、どこかへ飛んでしまった。
「……体、張った甲斐があったな」
残りの水を飲み干した後、黒瀬は柔らかな笑みを浮かべて、ゆらぎを見つめた。
「え?」
「落ち込んでるみたいだったから。元々、感情をあまり表に出さないお前が、あんなに項垂れてたら、誰だって心配するだろ」
「私、落ち込んでましたか」
「ああ。負のオーラが漂ってた」
黒瀬先輩に悟られるくらいに、落ち込んでいたのか。
「言っておくが、自分を責める必要はない。俺たちの職業は特殊で、こうなることも想定内だ。顔も知らない人たちに、意味もなく嫌われることだってある。
けど、だからって自分を責めたって何も変わらないし、変えられない。まあ、だからって、強くある必要もないんだけどな。自分から進んで独りになる必要もない。……背負い過ぎるな」
黒瀬の言葉は重みがあった。
きっと、ゆらぎがこの業界に足を踏み入れる前から、彼は様々なものを犠牲にして、覚悟して生きてきたからだろう。
いつだって、悪意はすぐ隣にいる。
自分を脅かす存在に屈しては、生きてはいけない。
「だから、謝るな」
声が出なかった。否、出せなかった。
涙が溢れて止まらなかった。声を出そうとすると嗚咽に変わってしまう。
辛かった。苦しかった自分を認めてもいい。なんて、考えたこともなかった自分には、黒瀬先輩の言葉はとても重くて心の鎧は全て脆く崩れ去ってしまった。
躊躇いがちに伸ばされた黒瀬の手は、ゆらぎを優しく包み込み、彼の体温がゆっくりと繋がりを持たせていく。
背中に回された、太くてがっしりとした腕が、ゆらぎの華奢な身体を控えめに締め付ける。
彼女の髪を鋤く手が、少しだけ震えてみえたのは、彼も緊張していたからなのか。
「くろ、せ……先輩っ」
嗚咽混じりに彼の名を呼ぶ。
その度に、黒瀬は子供をあやすような慈悲に満ちた声で返事を返した。
数分後。ゆらぎは彼にしがみついていた手をゆっくりと離した。
「すみません、私……」
「俺の前で謝るの禁止。甘えろよ。もっと、頼れよ、俺を」
泣き腫れた瞼を隠すために俯いたまま、ゆらぎは微かに頷く。
「あー……でも、こんな姿見せるのは俺だけにしろよ。特に、緑川のやつには絶対に見せるな」
「……ウグイス先輩、ですか?」
どうして、そこで緑川の名前が出るのか。ゆらぎは不思議で仕方なかったが、聞き返すのも気が引けて疑問を飲み込んだ。
黒瀬はゆらぎの顔を両手で壊れ物を扱うように触れると、その唇にそっと自身の熱を押し当てた。
「白石が女だって気づいてから、ずっと好きだった」
「…………」
ゆらぎは黒瀬の告白に応えられないまま、黒瀬の瞳を見つめる。
一度、触れただけの唇に残る感触と熱に、心が揺らいだ。
──伝えたい。私も黒瀬先輩のことが好きだと伝えたい。なのに、上手く言葉が出ては来なくて、喉を詰まらせる。
「……嫌、だったか」
悲しげに問う黒瀬に、ゆらぎは首を横に振り、否定する。
「わた、し……」
「あー……、ごめん、ストップ。これ以上は俺が堪えられない。うん、返事は今じゃなくていいからさ。弱ってる時に言った俺も卑怯だし」
離れていく黒瀬の腕の感触に、ゆらぎは寂しさを覚えて、思わずその手を引き留めた。
「違うんです。聞いて、ください……」
「……分かった」
黒瀬は覚悟を決めたのか、ゆらぎの次に続く言葉を待ちわびた。
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