第55話 嘘だと言って。

 待って。事務所を閉めるって、どういうこと?


 彼女の耳に聞かされたのは、あまりにも突然のことで、二人の会話の意味を理解することが出来なかった。


「閉めるって、どういうことですか……」


 ゆらぎの問いに赤坂は視線を逸らし、代わりに答えたのは黒瀬だった。


「そのままの意味だ。もう、この事務所はこれまで通りに、事業を継続出来る程の力は残ってない。なんせ、稼ぎ頭だったのは俺ひとりだったからな。こうなったら、後はなし崩しになるだけだ」


「そんな……」


「残念ながら、黒瀬くんの言う通りです。これ以上、事務所を今まで通りに運営することは出来ないでしょう。新規の仕事が入っていないのでは、どうすることも出来ません。営業は続けていますが、今は黒瀬を起用するのを控えたいと言う反応がほとんどでしたし」


 まさか、こんな事態になっているなんて思ってもいなかった。


 一朝一夕で経営難なるなど考えにくい。ということは元々、ぎりぎりの状態で運営していたということか。


「ですが、社長から二人に伝言を預かっています」


「ん、なんだ?」


 赤坂は手にしていた手帳から四つ折りにされた紙を取り出すと、音読し始めた。


「こんな形で終わりを迎えることになって、本当にすまなく思っている。だが、今は忍び耐える時だと僕は思っている。だから、君たちも簡単に諦めないでくれ。道はいつか必ず拓かれるのだから……以上、ですね。社長からの伝言は」


「それだけ、か……」


 黒瀬はそれきり、口を閉ざした。


 励ましで締め括られた、社長からの短い言葉には、新たな決意が滲み見えていた。


 私を責める言葉は一つも無かった。


 むしろ、罵倒してくれたなら、どれだけ良かっただろうか。現状から目を逸らすな。逃げるなということなのか。


 今は考えても、社長の言葉の真意を汲み取ることは出来なかった。



 寮の自室に戻ると、照明の電源も入れずに冷たい床に座り込む。壁掛け時計の規則的に刻む音だけが、やけに響いて耳障りだった。


 ゆらぎは瞼を閉じて、ゆっくりと回想に浸る。


 少しだけだったけれど、事務所に所属出来て、声優の仕事が出来て、楽しかったな。


 黒瀬先輩に出会えて、田中社長に赤坂マネージャーがいつも寄り添ってくれて……。なんだかんだ言っても、ウグイス先輩も良くしてくれた。


 私は、凄く恵まれていたと思う。


 この事務所で頑張るのだと覚悟を決めたのに……。


 結局は何も出来ないまま終わってしまった。


 私はこんなにも、うじうじとした性格だっただろうか。湿っぽいのは似合わないと自負していたのに。


「……おい、電気くらいつけろ」


「黒瀬、先輩……?」


 回想に割り込んできたのは、黒瀬の声だった。一瞬、幻聴かとも思ったが、それにしてはやけに近くで聞こえる。


 ……そうだ、ドアに鍵をかけるのを忘れていた。


 彼が無断で部屋に足を踏み入れたことで、我に返った。


「これ、やるよ。期間限定の唐揚げ」


 黒瀬が歩み寄り、ゆらぎの眼前に差し出したのは、激辛王の挑戦状と書かれた唐揚げのパッケージだった。


 受け取るとまだほんのりと温かい。これの為だけに、わざわざ買いに出かけてくれたのだろうか。もしかして、励まそうとしてくれているのか。不器用な彼らしさに、少しだけ笑みが溢れた。


「ありがとう、ございます……」


「お前、どうせ何も食ってないんだろ。あ、ビール持ってくればよかった」

 

 ぶつくさと言いつつも、黒瀬は我が物顔でソファに座ると、自分の分の唐揚げを頬張り始めた。


 ……そして、騒ぎ始めた。


「うわっ! これ、めちゃくちゃ辛いぞ! 水! 水!」


「え! 水、水」


 急かされた、ゆらぎは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、辛さに悶絶している黒瀬に差し出した。


 ペットボトルの水をあっという間に半分ほど飲み干したところで、辛さが落ち着いたのか、黒瀬は息をついた。


「……悪い。こんなに辛いやつだとは思わなかった。さすがに食えな──」


「……ん? 美味しいですよ、この唐揚げ」


 そう言いながら、ゆらぎは黒瀬が悶絶していた激辛の唐揚げを、普通に食べていた。


 辛さを我慢している風もなく、かといって演技をしているわけでもなさそうだ。


「はあ? 嘘つくなよ。辛すぎて味なんて分からないって」


 黒瀬は、あまりにも平然と食べているゆらぎの姿に触発され、もう一度唐揚げを食べたものの、やはり……。


「げほっ! やっぱり、辛いじゃないか! なんで、食えるんだよ」


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