第54話

 黒瀬は胡乱な眼差しで緑川を一瞥する。


「頼って貰えなかったからって、嫉妬は見苦しいよ。黒瀬くん」


「俺が嫉妬するわけないだろ」


 一触即発。とまではいかないが、相変わらず、他人の神経を逆撫でるのが上手い緑川は、一人勝ち誇った笑みを浮かべている。


 対する黒瀬の額には、青筋が浮かんでいるように見えなくもない。


「分かった。じゃあ、白石はこの業界から抜けて一般人になるんだな? なら、なんの問題もないな」


「問題、ですか?」


 そうか、やはり黒瀬先輩は内心、私のことを快く思っていなかったのだ。


 私がこの業界から消えることで、黒瀬先輩はもう一度やり直せるチャンスが生まれる。


 ──問題であった私が無かったことにされる。全て、リセットされる。


 これで、良かったんだ。


 やけに冷静に納得している自分がいた。


 深い深い暗闇にのみ込まれていく感覚に、ゆっくりと瞼を閉じる。



「緑川、白石は俺が貰っていく」


「うん、分かった。──って、僕がそう簡単に言うと思った? ダメだよ。言ったよね? 僕も本気だって」


 ゆらぎが自身の思考の海に浚われている間にも、話はどんどんと進んでいく。


「なら、どうするんだ。当の本人は自信喪失で、話を聞いてないぞ。選べって言うのは酷だろ」


「選べって、ずいぶんと自信があるんだね」


 黒瀬の自信過剰な言葉に、緑川は意味深な微笑みを浮かべていた。


「おい、白石はどっちなんだ」


「え? 何がですか」


 そして、ゆらぎを永遠の暗闇から突然救い上げたのは黒瀬で、会話の流れを掴めずに困惑する。


「だから、お前は緑川が好きなのか」


「……え? 好き?」


 いつの間にそんな話になったのか。


 ゆらぎは緑川が好きだと一度も言ったことはない。


 確かにあの時は心が弱り、彼を頼ってしまったのは事実だ。だが、好意を抱いているかは、また別の話で、答えようがない。


「正直、よく分からないです」


「うん。いいよ。これから好きになってもらえれば、それで。強引で俺様タイプの黒瀬より、僕のほうが絶対いいに決まってる」


「どう考えても、裏表をしょっちゅう使い分けてる緑川なんか信用出来ないだろ」


 再び二人の言い争いが始まり、この状況をどう納めればいいのか、ゆらぎは分からないまま静観していた。


「──とりあえず、一旦休戦だな」


 数分後。黒瀬の一言で討論は一時休戦となったが、両者の意見はお互いに譲る気はないらしい……。



 その後。結局、ゆらぎは黒瀬に連れられて事務所に戻ることとなり、緑川のマンションを後にした。


 タクシーの車内では、お互いに無言で言葉を交わすことがないままに事務所に到着する。


 数日間、事務所に立ち寄らなかっただけなのに、ビルを見上げた途端、ひどく安堵した。


「赤坂はいるか」


 事務室のドアを開けるなり、黒瀬は赤坂の姿を探す。その声を聞きつけた赤坂が、部屋の奥から顔を出した。


「ああ、黒瀬くん。お帰りなさい。どうしましたか──って、白石くん! 心配していたんですよっ!」


「ご、ご迷惑をおかけして、すみませんでした」


 ゆらぎは赤坂の姿を見るなり、素早く頭を下げて、謝罪を口にした。


「いえ、無事でいてくれて良かったです」


 恐る恐る顔を上げると、少し見ない間に、やつれたのか赤坂の顔には影が出来ている。


 それでも、変わらずに優しく微笑み、ゆらぎを迎え入れてくれた彼には感謝しかない。


「社長は?」


 黒瀬は事務室を見渡し、社長の姿を探すが、見当たらない。ここにいないのなら、社長室かもしれない。


「田中社長なら出掛けています。しばらくは多忙のため、事務所に顔を出すのは難しいかもしれません」


「そうか……。やっぱり、閉めるのか? この事務所」


「何も聞かされていないので、まだ何とも言えませんが、恐らくは」


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