第52話 誓いとテキーラの味。


「さて、どうしようかね。この窮地を」


 黒瀬を送り出した後、田中は姉の九十九院トキを呼び出し、バーで酒を酌み交わしていた。


「白々しいわね。じゃあ、なんのために私を呼んだのよ、銀次」


「いや、これはこれでいいかなーなんて思ってたりもするんだ、僕的には」


「はぁ? 仮にも事務所の社長なんだから、そんな及び腰でどうするのよ! 本当に情けない弟だわ」


 一杯目から強いお酒を煽り、普段からの男勝りな性格がさらに強調され、最早手がつけられない状況だ。


 やっぱり、赤坂を連れてくるべきだった。

 今からでも、間に合うだろうか。


 田中がスーツのポケットから携帯を取り出そうとしていると、突然足の甲に痛みが走る。


「姉さんが強すぎるだけ──って、痛いよっ! ごめんなさい! お願いだから足を踏まないでくれ」


 痛みの犯人は無論、姉の九十九院だった。ピンヒールが時として、こんなにも鋭利な凶器になるとは思わなかった。

 

 カウンターバーでは姉弟の熾烈な(主に九十九院の一方的な攻撃)戦いが繰り広げられているが、その様子をマスターは咎めるわけでもなく、無表情でグラスを磨き続けている。


「この私が今から、この不甲斐ない弟を助けるのよ! 感謝なさい」


「ぐっ、具体的にはどうするんだい?」


「ふふっ、それは秘密よ。銀次の大切なあの子たちを必ず守ってみせるわ。約束よ。だから、今日は銀次の奢りね」


「いや、まあ、うん。最初から奢るつもりだからいいよ」


 この計画が吉と出るか凶と出るか。

 全ては九十九院トキに懸かっている。


 田中は祈る思いで、グラスに残っていたウイスキーを呷った。


 ─────


「……やっぱり私、事務所に戻ります」


 開口一番、ゆらぎは緑川に告げた。


 モーニングコーヒーの支度を終えた緑川は、綺麗に磨かれたガラステーブルに、コーヒーカップを二つ並べる。湯気とともに芳醇な香りが鼻腔を掠めた。


「どうして? きみには不自由をさせないって言ったはずだよ。欲しい物なら何でも用意するつもりだけど」


 緑川はソファに腰を落とすと、カップを片手に疑問を返した。


「違うんです。そうじゃなくて、今の私は何もかもが中途半端で……それが嫌なんです。事務所を辞めるにしても、ちゃんと社長に全てを話してからじゃないと……」


「でも、それじゃ黒瀬と会うことになるよね? それはいいの? もう、会いたくないんじゃないの」


「そのことについても、決着をつけようと思います。多分、黒瀬先輩に会ったら辛くなるのは分かってるんですけど……」


「なら、無理に会う必要はないと僕は思うよ」


「…………」


 ゆらぎはうつ向き、言葉を詰まらせる。


「じゃあ、言い方を変えるね。──行かないで。黒瀬と会わないで」


「……え?」


 緑川の言葉に、ゆらぎは目を見開いた。


 いつものように、からかっているのだと思った。だが、緑川の表情はいつになく真剣で、それでいで、哀しげな瞳は彼女を捕らえて離さなかった。


「僕が嫌なんだ。きみが黒瀬と会うのが。会ったらきっと、もう、ここには戻って来ないよね」


「それ、は……」


「約束してくれる? 僕のところに戻って来てくれるって。出来るなら、いいよ。行っても。でも、僕も本気だから。そう簡単に、きみを手離すつもりはないし、黒瀬に渡すつもりも毛頭ない。それはあいつも分かってると思うけどね」


 緑川の言葉に心が揺らいだのは、罪悪感なのか。


 ゆらぎは、咄嗟の嘘をつくことも出来なかった。


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