第50話 迎えにいくよ。


「もう、話すことなんて何もないわ」


 彼女はそう言い捨てると椅子から立ち上がり、ゆらぎには目もくれずカフェから去った。


 残されたゆらぎは、テーブルに残された二つのコーヒーカップをただ茫然と眺めていた。



 結局、何も解決しなかった。

 交渉は決裂してしまった。


 事務所に迷惑をかけ、黒瀬先輩の仕事を奪い、自身の立場をも失った。


 私は何も出来なかった。


 無力は罪なのか。


 寮に帰ることも出来ずに、夜の街をさ迷い歩く。


 様々な光が乱反射する景色に目眩がした。


 いっそのこと、このまま世話しなく行き交う光の波に飛び込んでしまえば……。


 そんな考えが脳裏をよぎる。


 身体は無意識に赤信号の車道に足を踏み入れた。


「っ、ふざけてるの。きみは──」


 自動車と触れる寸でのところで、強い力で引き寄せられ、暖かい何かに身体ごと包まれる。


「……」


 覚えのある香りに安堵が込み上げ、目頭が熱くなる。


 ああ、この香水の香りは──。


「どうして……」


「黒瀬から連絡がきた。きみが突然行方をくらましたって。仕事を飛ばしたことも」


 私を抱きしめているのは、黒瀬先輩ではなくて、ウグイス先輩だった。


「そう、なんですね……」


「……死にたくなるほどにつらいなら、辞めればいい。全部、捨ててもいいよ」


「全部、捨てる……」


「僕が貰ってあげる。きみの悲しみも苦しみも全部。だから、忘れてしまえばいい」


 ──全部を捨てる。


 ──全てを忘れる。


 忘れられるかな。さゆのことも。

 

 黒瀬先輩のことも。


 走馬灯が廻る。


 思い出すのは黒瀬先輩の照れ隠しの表情や、仕事へ取り組む全力な姿。様々な思い出が溢れだしていく。止められない思いは決壊し、涙となって頬を伝う。


 私、黒瀬先輩のことが──。


 好きだったのかもしれない。


 気づかないふりをして、本心を隠していただけなのかもしれない。


「もう、全部……忘れたい、です。黒瀬先輩のことも、さゆとの思い出も……」


「……うん。いいよ。僕が全部、忘れさせてあげる──」



 ゆらぎは差し伸べられた彼の手に、そっと触れた。

 

 ────


「ごめん。僕も探したけど、彼女は見つからなかったよ。自分の意思で失踪したなら、これ以上探しても……。僕だって、心配してる。……ああ、分かった。何か情報を掴んだら連絡するよ」


 電話の相手は黒瀬だ。受話器越しに伝わる隠しきれない彼の動揺はそれだけ、彼女のことを思っているからに違いない。


 僕は罪を犯した。彼に嘘をついた。


 黒瀬が探している彼女は『ここ』にいる。


 甘い言葉で誘惑し、黒瀬から彼女を引き離した。


 こんな状態の彼女を放って置けなかったのも事実。本音を言うなら、黒瀬に彼女を渡したくなかった。これ以上、傷つけたくなかった。


 そもそもの全ての責任は自分に有る。


 彼女が性別を隠して活動していたことに、面白みを感じていたのは事実だ。そして、もてあそぼうとしていたことも。そこにあったのは嗜虐心だけではなかったのだと今なら解る。


 触れれば、触れるほどに、彼女に恋情を抱き始めていたことにも、自分自身で気づいていた。


 だから、正直に言えば、この状況は嬉しくも思う。


 例え、黒瀬に非難されたとしても、僕は恋い焦がれていた彼女を手離すつもりはない。


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