第45話 交渉は決裂ですか。

「どうしたら……」


 ゆらぎは携帯画面を見つめたまま、焦燥していた。


 こんなことってあるの?


 自問自答してみても、答えは返ってこない。


 さゆに連絡を取ろうとした矢先のことだった。彼女と連絡がつかないのだ。


 何度も電話を掛けたり、メールを送ったりもした。だが、そのどれもが繋がらない。メールに至っては未読のままだ。既読にすらならない。


 これが意図的なのか、判断がつかない。


 意気込んでいたゆらぎは、突然に出鼻を挫かれ、すっかり意気消沈としていた。


 もう駄目かもしれない。

 いつ、あの写真が出てもおかしくない。


 そしたら、私も黒瀬先輩も、きっと終わりだ。


 その前に出来るだけ手を打ちたかった。


 鬱々とした思考が廻る。


 そんな時だった。寮のドアをノックし、控えめな声で訪ねて来たのは、マネージャーの赤坂だ。

 

「白石くん、ちょっといいですか。事務所に来ていただきたいのですが」


「い、今行きます」


 ぼんやりとしていた意識を振り払い、慌ててスニーカーを履いて、ゆらぎは事務室へ向かった。



 事務室に入った途端、足が竦んだ。

 脳裏に良くないことが浮かんだ。

 何も言葉が出ては来なかった。


 そして、悟った。



 事務室にいたのはマネージャーの赤坂と黒瀬。田中銀次社長の三人だけだ。


 だが、空気が違った。いつものような和気藹々とした穏やかな空気ではなかった。重苦しい緊張感が張りつめていた。


 これはきっと、良くないことの前触れだ。

 生唾を飲み込み、室内に足を踏み入れる。


「失礼します……」


「うん。来てくれてありがとう。さて、時間が惜しいから単刀直入に聞くね。黒瀬くん、君は白石くんが女性だと気づいていたね? それはいつからかな」


「初対面の時から違和感はありました」


 田中社長の問いに、黒瀬は毅然とした態度で答えた。


「そっか……。なら、これは全て僕の責任だ。白石くんを男性に見立てて売り込もうとしたけど、最後まで全う出来なかったみたいだ」


「……バレた……んですね? 私のことが」


 ゆらぎは恐る恐る尋ねる。


「いや、厳密に言うと"まだ"だよ」


「まだ? どういう意味だ」


「相手から交渉を持ち掛けられたんだ」


「交渉、ですか。……具体的にはどんな内容何ですか。差し支えなければ教えていただけませんか」


「『事務所を移籍したい。協力してくれれば、このことは他言無用にする。データも全てそちらに渡し、抹消してくれてかまわない』」


「事務所を移籍したい? それが相手の取引の条件なのか」


「そうみたいだね。でもね、僕の事務所に所属していない子を、勝手に引き抜くことは出来ない。


 ましてや、他の事務所に推薦するといったことも出来ない。事務所同士のトラブルはご法度だからね。


 ただでさえ、僕の事務所は弱小だ。相手側からしたら赤子の手をひねるくらいに簡単に潰せてしまうだろうからね。僕はこの事務所を守りたい。……だから」


 田中社長の言葉が途切れ、一瞬の沈黙が流れた。


「もし、その条件を飲まなかったらどうなるんですか」


「当然、マスメディアに売られるだろうね。でも、そうなったら僕は、残酷な選択をする決意は出来ているよ」


「残酷な選択? 濁さないではっきり言ってください。俺は覚悟出来てます」


 黒瀬は初めから謹慎処分を受ける覚悟なのだろう。田中社長の言葉を素直に受け止めながらも、はっきりとしない社長の態度に少し苛立っていた。


 しかし、田中社長が向けた視線は黒瀬ではなく──。


「いや、覚悟を決めて貰わなければいけないのは──白石くん。君のほうだよ」


 ああ、分かっていた。


 事務所の大切な稼ぎ頭の黒瀬を失うわけにはいかない。なら、最初に見限られるのは当然、私しかいない。所詮は蜥蜴とかげの尻尾切りなのだ。


 そんなこと、田中社長に言われずとも最初から分かりきっていたことだ。


 今更で驚きさえなかった。


 例え、田中社長が事務所を守るために、この選択をし、実行したとしても、悔やむことはあっても恨んだりはしない。


 私がもっと気をつけていれば、こんなことにはならなかったのだから。


「覚悟は出来ています」


 ゆらぎは渇いて、ひび割れていく自分自身の心に最後の止めを刺した──。


「おい、白石!?」


 黒瀬が驚き、目を見張る。


「白石くん、落ち着いてください。銀次社長も少し冷静になってください」

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