第39話
俯いたまま、謝罪の言葉を述べる。
「別に気にしてないから」
ゆらぎはその言葉にホッとし、黒瀬の向かい側に着席した。黒瀬は彼女の姿を見て感想を口にする。
「なんか、今日は雰囲気が違うな」
「え? そう、ですか」
「ああ。似合ってる。それと、俯いてるままだと暗く見える。堂々としていればいい」
いつかのテーマパークの時と同じように、優しさを滲ませた声音で黒瀬は言う。
「お酒は必要?」
「いえ……出来ればソフトドリンクでお願いします」
「他に欲しいものはある? なければ、俺が適当にオーダーするけど」
「では、おまかせします」
どうやらこのレストランには、メニュー表が無いらしい。ゆらぎが戸惑いを隠せずにいると、不意に黒瀬に声を掛けられる。
「緊張してる?」
「そう、ですね……。緊張してます」
他愛ない会話をすれば、するほどに、ゆらぎはこの現実を受け入れざるを得なくなってしまった。
ああ、これはきっと気づいてはいない。
私が『白石』だということに。
ゆらぎの言葉を聞いて、黒瀬は柔らかな笑みを浮かべている。
けれど、その瞳に『私』は映ってはいない。
──『私』を見てはいない。
そう理解した瞬間、何故だか言い様のない寂しさが込み上げてきた。
きっと、心のどこかで期待していたのだろう。黒瀬先輩は気づいてくれるって。
でも、そんな淡い期待は、いとも容易く断たれてしまった。
タクシーの車内で、ウグイス先輩が言っていたのは、このことを見越しての言葉だったのか。
失恋にも似た痛みが、ゆらぎの心をちくりと刺激した。
ならば、私に出来るのはただ一つ。
最後の瞬間まで『シライ』を演じるだけだ。
決意を胸に、ゆらぎは自身で造りあげてしまった実在しない『彼女』を演じた。
黒瀬が会計を済ませ、二人揃って外へ出る。
だが、ゆらぎにはレストランで黒瀬と何を話して、何を食べたのかさえ思い出せないくらい心身共に疲弊していた。
私は無事に最後まで『シライ』を演じることが出来ただろうか。そんな漠然とした不安に駆られ、一秒でも早くこの場を去りたい気持ちで一杯だった。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。ではまた……」
タクシーを待つ時間すらもどかしく感じ、ゆらぎは黒瀬への挨拶もそこそこに我先にと歩み出した。
が、その左腕を黒瀬に掴まれてしまった。
夜風に晒され、冷えていた体温が僅かに上昇していく。
「送って行く」
レストランでの優しげだった黒瀬の雰囲気は、一転して酷く冷えた声音に変わっていた。
「で、でも……」
「いいから」
どう、いうこと……?
心のなかで、そんな言葉がぽつりと零れ落ちた。
ついさっきまでは、あんなに穏やかに笑っていたというのに。
黒瀬の突然の変化に焦りが生まれる。
最後の最後で、私は何かしくじってしまったのだろうか。
その有無を言わせない黒瀬の態度に驚き、ゆらぎは拒絶することも出来ないまま、二人は人波に紛れて歩き出した。
途中、黒瀬に少し強引に肩を引き寄せられて、逃げ場を失う。突然の行動を怪訝に思い黒瀬を見上げると、彼はゆらぎの耳元でこう静かに囁いた。
「尾行されてる」
「なっ! むっ!!」
思わず声を上げ掛けたが、黒瀬の大きな手のひらで口元を優しく塞がれた。
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