第38話 一か八かの賭け。


 ──緑川の自宅マンションのリビング。


「うん。完璧」


「…………本当にこれで行くんですか」


「当たり前でしょ。僕の努力を無駄にするなんてことは許さないから」


 緑川が用意したシンプルなデザインのネイビーワンピースに、袖を通したゆらぎは戸惑いを隠せないでいた。


 スカートの類いは、今までの人生の中で数える程しか着たことがない。ましてや、ワンピースという女性らしさが溢れる洋服は、数回着たことがある程度だ。


 この上ない、羞恥心に駆られる。

 

 本当に似合っているのだろうか。

 お世辞を言っているようにしか聞こえない。


 それに、生地の触り心地の良さからするに、もしかしなくても高級ブランドの物だ。


 これは、レンタル料金を訊ねるべきだろうか。


 そんな些末なことを考えている内に、約束の時間は刻々と迫っていた。時計を見る限り、約一時間弱しか残されていない。


 ここまで来て、衣装まで用意されて、今さら逃げ出す訳にもいかない。


 静かに深呼吸をして、ゆらぎは覚悟を口にした。


「……分かりました。行きます」


「んー。にしても、正直に言うと黒瀬に会わせるのは少し惜しいな」


「は?」


 俯いていた顔を上げると、緑川が真面目な表情で思案していた。


「やっぱり、あの時、僕の彼女ってことにしとくべきだったかな」


「こんな時まで冗談言うのやめて下さい。本当に怒りますよ」


 緊張を和らげようとしてくれているのか、それとも単にからかっているだけなのか。ゆらぎには、その判断がつかなかった。


「……本気なんだけど」


「何か言いました?」


「いや、何も。さあ、時間も無いし向かおうか、黒瀬が待つレストランへ」


 ゆらぎが怒りを露にすると、緑川は小さく呟き、先ほどの言葉を誤魔化した。



 指定されたレストランへタクシーで向かう車内の隣の席には、何故か緑川が座っていた。


「なんで、付いて来てるんですか」


 表情を歪めて、迷惑だと意思表示するも、緑川には何の効果もないらしい。


「君が失恋した時に慰め役が必要かなって」


 余裕綽々とした緑川の態度に呆れ、ゆらぎは無視を決め込んだ。


 タクシーの窓から流れる景色を眺める。

 

 様々な店の灯りで彩られた夜の街並みは、ゆらぎの瞳に目映く映った。


 『シライ』の正体に、本当は気づいて欲しいのか。気づいて欲しくないのか。


 自分の心境は複雑な感情で、酷く入り乱れていた。



「到着。僕は近くのバーで暇潰ししてるから。何かあったら連絡してくれてもいいよ」


 緑川は然り気無く料金を支払い、タクシーから降りると、ひとり大通りの人並みへと消えた。


 眼前に聳えるレストランを見上げる。


 ゆらぎは今、黒瀬に会う緊張感よりも、いかにもな高級レストランのメニューの値段を入店する前に想像していまい、怖じ気ついていた。


 お金足りる……よね。


 緑川の話によれば、黒瀬が予約を入れている為、店員に彼の名前を出せばいいと言われたが、本名なのか、それとも黒瀬名義なのかを確認するのを忘れてしまった。


 自分の勘を信じるなら、おそらく後者だろうと予想はつくが。


「あの、黒瀬セメルの連れですが、予約はありますか」


「黒瀬様ですね。はい、承っております。お席へご案内致します。こちらへ」


 慇懃な店員に従い、後を追うとテーブル席の一角に見慣れた後ろ姿が目に映る。間違いなく黒瀬先輩だった。


 思わず、『黒瀬先輩』と口走りそうになる。


 違う。今の私は『白石』じゃない。『シライ』だ。正体が明かされるその時まで、演じ続けなければならない。


 もしかしたら、気づいていない可能性もあるのだ。最後まで気は抜けない。


「お、お待たせしてすみません」

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