第37話
自販機の横に、ゴミ箱が設置されていることをすっかり忘れていた。
ゆらぎは緑川に『恋する甘い天然水』を無理やり押し付けて、距離を置いた。
「少しは意識してくれた?」
「何を言ってるんですか……。誰かに見られでもしたら、どうするつもりです?」
「別にいいんじゃない? あ、緑川ウグイスって男もイケるんだー、くらいにしか思われないよ」
そういえば、私。男装してる身だってことを、すっかり失念していた。
いや、そうではなくて。
ウグイス先輩が同性も平気だという噂が世間に流れでもしたら、それはそれで、色々と大変なことになるのでは。
だが、当の本人は些末なことだと、気にも留めていない。
「あ、ちなみに。黒瀬とシライさんが会う日決まったから。夜なら問題無いよね」
「勝手に話を進めないでください」
何の了承も無く、黒瀬と会う約束を取り付けられ、ゆらぎは焦燥する。
「日時は三日後の午後八時。場所は港区のレストラン」
続く緑川の言葉に、ゆらぎは目を見張る。
……三日後!?
「え、ちょっと待ってください。三日後って、心の準備が……」
「大丈夫でしょ。相手は黒瀬なんだから」
いや、だから。そういう問題じゃない。
言い訳を……。黒瀬先輩に会ったとして、正体を知られた後の対策を、まだ何一つ考えていない。猶予が余りにも短すぎる。
「結果なんて、なるようにしかならないよ」
「他人事だから、そう言えるんです」
「じゃあ、収録が終わったらボクの家に直行して。衣装は準備してあげるから」
「……あの、人の話聞いてますか。ウグイス先輩」
だが、その問いには答えず、緑川は休憩室を立ち去る。残されたゆらぎは、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「白石」
「わっ!」
本日の収録が終わり、事務室で予定を確認していたゆらぎに、声を掛けたのは渦中の人物である黒瀬本人だった。
「おい。そんなに驚くなよ」
ゆらぎの過剰な反応に、黒瀬は不審な表情を浮かべていた。
「すみません……。何か、用ですか?」
平然とした態度を装うが、ゆらぎの挙動不審な態度に、益々胡乱な眼差しを向ける黒瀬。
ウグイス先輩と関わるようになってから、誤魔化しが下手になった。
こんな態度では何かを隠していると、自己申告しているようなものだ。
「まあ、いいけど……。それより白石、三日後って予定あるのか」
「三日後、ですか? ありま──すん」
ありません──と言いかけ、慌てて口を噤む。そして、ゆらぎはあることに気がついた。
『白石』としての予定はない。
だが、『シライ』としての予定なら──ある。
つまり、黒瀬先輩は誘導尋問をしているのか。これはどちらとして、答えるのが正解なのだろうか。
「は? どっちだよ」
「えっと……だから……あるようでない……んです」
視線をさ迷わせ、しどろもどろに答える。
「はっきりしない奴だな」
言える訳がない。
例え、黒瀬先輩が『シライさん』の正体に気づいていて、敢えて、知らない振りをしているのだとしても。
苛立ちを露にした黒瀬は、変わらぬゆらぎの態度に諦念したのか、頭を振り、その場を立ち去ろうとする。
「……先輩こそ、何か用事があるんですか? その、三日後」
ゆらぎは、その背中に思わず問い掛けていた。
「ある」
黒瀬はゆらぎに背を向けたまま、きっぱりとそう答え、事務室から姿を消した。
黒瀬先輩が『ある』と答えたその予定はきっと、私と同じなのだろう。
──私もいよいよ覚悟を決める時が来たようだ。
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