第36話


「黒瀬先輩」


「ん? なんだ」


 寮の廊下で黒瀬を見かけた、ゆらぎは反射的に声を掛ける。


 黒瀬先輩に会うのは、少し久し振りだった。


 同じ寮で生活をしているというのに、ここ最近はスケジュールが合わずに、すれ違いの日々が続いていたのだ。


 しかし、声を掛けたところで何を言えばいいのだろうか。


「えっと……」


 言葉に詰まり、ゆらぎは黒瀬から視線を反らす。すると、黒瀬から話題を振ってくれた。


「なんか、久し振りだな。収録は順調か?」


「あ、はい。昨日から個人録りに入りました」


「そうか……」


「…………」


 けれど、会話は長く続かず、二人は廊下で立ち尽くし、沈黙した。


 緑川の一件以来、お互いに彼の話題は避けていた。そのため、何処と無く気まずい空気が漂う。


「まぁ、頑張れよ。じゃ」


 沈黙に堪えかねた黒瀬は、ゆらぎに励ましの言葉を掛けると、足早にその場から立ち去ろうとする。


 自分から声を掛けておいて、何も言えないなんて、我ながら情けない。


「ま、待ってください」


「ん?」


「ウグイス先輩は悪い人じゃない、と……思います」


 考えるよりも先に言葉が勝手に出ていた。

 

 何を言っているんだろうか、私は。


 そんなことを黒瀬先輩に宣言しても、「だからなんだ」と言われるに決まっている。


 でも、言わずにはいられなかったのだ。


 このままずっと、黒瀬先輩とウグイス先輩の関係がギクシャクとしているのは、こちらとしても居心地が悪い。


「うん。知ってる」


「じゃあなんで……」


「こっちにも色々あるんだよ。白石が気にすることじゃない」


 黒瀬の突き放すような物言いに、ゆらぎはたじろぎ、一抹の寂しさを覚えた。


 なんだか、避けられているような気がした。


 私があの時の『シライさん』と、同一人物だと気づいてしまったからだろうか?


 騙すような真似をしてしまったから、黒瀬先輩は怒っているのだろうか。


 どうすれば……。


 いくら考えを巡らせても、黒瀬が納得する言い訳は出て来ず、ゆらぎが思考から戻った時、すでに黒瀬の姿は廊下から消えていた。



「え? 避けられてる? 黒瀬に?」


 収録の休憩時間になり、ゆらぎは緑川に愚痴をこぼしていた。


「ええ、そうです。ずっと様子がおかしいんです」


「んー。ボクは何もしてないんだけど。何? 君は黒瀬の様子がおかしいのはボクのせいだって言いたいの?」


 りんごジュースの紙パックを片手に、緑川は椅子に腰掛け、ゆらぎの言葉に耳を傾けていた。


「そういうわけじゃなくて……」


「じゃあ、恋の相談?」


「は?」


 ゆらぎが自販機の前で飲み物を選んでいると、突然に緑川はそう言い放った。


 驚きで声を上げたと同時に、その勢いで自販機のボタンを押してしまっていた。


 ガコンと鈍い音を立てて出てきたのは、期間限定商品の『恋する甘い天然水』だった。


「ウグイス先輩のせいで、百円が無駄になっちゃったじゃないですか」


「ボタン押したのは君だよ。それにボクは黒瀬の恋のライバルだってこと、忘れてない? 返事はいつでも良いって言ったけどさ」


 そう言い、緑川は椅子から立ち上がると、ゆらぎにゆっくりと近づく。


「な、なんですか……」


 後退りするも背中は、すでに壁際まで追い込まれていた。


「君が意識してくれないなら、俺のことを意識させるまでのこと……」


「ウ、ウグイス先輩? これは一体何の冗談ですか」


 この状況は所謂、『壁ドン』というものだろうか。


 壁と緑川に挟まれ、身動きが取れなくなったゆらぎは目蓋を閉じる。


 すると、コトンっと小気味良い音がして、閉じていた目蓋を開いて、辺りを一瞥した。


「……え?」


 状況を理解出来ずに、ゆらぎは茫然とする。


「紙パック捨てただけだけど? 何かされると思った?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る