第34話 嘘なんて、ついてない。


「コーヒーでいい?」


「はい」


 彼女のオーダーを聞いた緑川は、キッチンへ向かう。

 

 数分後、ゆらぎの目の前には、ブラックコーヒーの入ったカップが置かれた。

 

「ウグイス先輩、今日は飲まないんですか」


 緑川の目の前に置かれているのは、ペットボトルのミネラルウォーターのみだった。


「生憎、そんな気分じゃない」


 疲労感を滲ませた緑川の表情に、ゆらぎは出鼻を挫かれる。


「で、話って何?」


 緑川に話を促されるも、どう切り出せばいいのか分からないでいた。

 

「……ウグイス先輩は私達の敵ですか」


「どういう意味?」


 ゆらぎの言葉の意味が理解出来ずに、緑川は眉根を寄せた。


 何の脈略も無しに、『敵ですか』と問われて、『はい』と肯定する人間が何処にいるのか。


 言ってから後悔した。

 もっと他に、別の言い方があったはずだ。


 これでは、彼のことを疑っていると、自ら公言したようなものだ。


「何の話か分からないけど、ボクは君の敵じゃないよ」


「じゃあ……教えてください。黒瀬先輩を週刊誌に売ろうとしてるのは誰なんですか」


「は? 週刊誌? どういうこと。黒瀬、マークされてるの?」


 緑川は目を見開き、驚いていた。

 その表情は演技には見えず、明らかに素の表情だったと思う。


 ということは、ウグイス先輩は『白』なのか。


「……おそらく」


 ゆらぎの返答を聞き、緑川は何かを考えるように突然黙り込んでしまった。


 静寂に流れるのは、お互いの微かな呼吸音。


 数分置いて、緑川は口を開いた。


「セブンの社長はそんな姑息なことはしないよ。実力で勝負しない奴が一番嫌いなんだ」


「そう、なんですか?」


「うん。簡単には信じられないかもしれないけど。だから、うちの事務所じゃないと思う」


 事務所のことを語るウグイス先輩の瞳は、真剣そのもので、嘘をついているようには見えなかった。


 そっか……。

 違うんだ。ウグイス先輩じゃないんだ。


 張り詰めていた感情が緩み、ゆらぎの瞳から一滴の涙が頬を伝う。


「良かった……ウグイス先輩が……悪い人じゃなくて」


 泣くつもりなんて、これっぽっちも無かったのに、涙は堰を切ったかのように、次から次へと溢れ出して止まらなかった。


「泣くなよ」


 緑川の優しい声に涙は増すばかりで、ゆらぎは自身の感情に驚いていた。


 本当は怖かったのかもしれない。


 もし、ウグイス先輩が『黒』だと肯定したとき、きっと自分は平常心を失っていただろう。


「はい、ティッシュ」


「ありがとうございます……」


 俯いていたゆらぎの頭上に、ティッシュの箱が、コツンと軽く当てられた。


「もう、大丈夫そう?」


「……はい。泣いて、すみませんでした」


 ひと思いに泣いて、落ち着きを取り戻したゆらぎは、顔を恥ずかしそうにゆっくりと上げた。


 すると、緑川の顔が眼前に迫っていた。


 驚いて反射的に仰け反るゆらぎを、緑川は優しく抱き止めた。


「ちょっと、何してんの」


「ウグイス先輩の顔が近いからです!」


 ゆらぎは緑川を押し退けようと、両手で抵抗する。


「キスしようと思って」


「は!? な、何言ってるんですか! 正気ですか」


「うん」


 緑川の思考は一体何がどうなって、キスをするという発想に至ったのか。


「そういうのは彼女さんとしてくださいよ」


「いないって。そもそも、男の家で泣くのは反則だと俺は思うけど?」


 確かに、つい先ほどまで大いに泣きはしたが、あれは可愛らしい泣きとは程遠かった。


 鼻を垂らして号泣している状態の女性を見て、キスをしたいと思える男性がいるのか。


「正直に言うと嫉妬してる」


「……嫉妬……?」


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