第29話 忍び寄る影と噂。


「つまり。何か仕掛けてくる。ということだね?」


 田中社長は落ち着いた声音で、九十九院の言葉を確認するように問い返す。


「そうね。今はそれしか言えないわ。私も状況を掴めていないのよ」


 九十九院は顔に掛かった長めの前髪を、手櫛で直しながら答えた。その表情はとても深刻だった。


 自分の知らない所で、何かが蠢いている。

 しかも、私達にとっては良くないことらしい。


 ゆらぎの脳裏に過ったのは、緑川のことだった。


 まさかとは思うが、あの計画はゴールドセブンが仕込んだものなのだろうか。だとしたら、私は良いように利用されただけなのか。


 あれから、緑川とは連絡も途絶えている。


「新人ちゃん、大丈夫? 顔色が良くないわよ」


「いえ……平気、です」


 これは何かの間違いであって欲しい。


 善くも悪くもあるが、私はもう一人の先輩を──ウグイス先輩を疑いたくはない。


「この事務所……簡単に潰したくはないでしょ」


「当たり前だ。僕はこの事務所を簡単に潰させたりはしない」


 いつもはどこか飄々としていて、頼りなく見えている社長が、強い眼差しで答えた。


「じゃあ、私はもう行くわ。午後から収録なの。何か情報を掴んだら、また報告に来るわね」


 ハイヒールの踵を強く鳴らしながら、九十九院トキは事務室を後にした。



 もし、この事務所に大きな災難が降り掛かったとしたら、それは間違いなく私の責任だ。


 もっと早くに、緑川に性別を気づかれてしまったことを、事務所に伝えていれば、こんなことには成らなかったかもしれない。だが、全ては後の祭りだった。


 明日で収録は最終日を迎える。


 予定では明日の収録は個人録りの為、現場で緑川と会うこともない。黒瀬はすでに二人よりも早く、全ての収録を終えて、現在は別作品の収録に移っている。


 赤坂は週刊誌の記者を警戒してか、黒瀬に付きっきりだ。


 何か、私に出来ることはないのだろうか。


 ベッドの上で仰向けになり、何もない天井をぼんやりと見つめたまま、ゆらぎは漠然とした考えを巡らせていた。

 

 

 ──翌日の収録最終日。


 スタジオに向かう前に事務室に立ち寄る。


 『白石護』のスケジュールボードは、今日を区切りに、明日からは白紙の日々が続いている。


『──ゴールドセブンには気をつけなさい』


 脳裏に再生されるのは、九十九院のあの言葉だった。


 聞けるなら、緑川に直接問いたい。


 けれど、尋ねる勇気が出ないのは、彼がもし『黒』であったとき、どんな態度で接すればいいのか、分からないからだ。咄嗟の動揺を隠せるほど、演技は上手くない。


 いや、本当は怖いだけだ。


 利用されていたという事実を突き付けられることも。事務所に多大なる迷惑を掛けてしまうことも。


 事実を知るのが怖い。


 事務所を辞めてしまえば、これ以上は周りに迷惑を掛けることもないのだろうか。


 そんな考えさえ脳裏に過る。


 だが、ゆらぎはこの決断を下す勇気すら、今はまだ持てないでいた。


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