第28話 憧れのアノ人。

 緑川の計画が惨敗した日から数日後のこと。ゆらぎは昼下がりの事務室で一人、雑務をこなしていた。


 すると……。


「ちょっと! 銀次! 銀次はいないの!」


 女性の怒声と共に事務室の扉が、大きな音を立てて乱暴に開け放たれた。


 ゆらぎは反射的に立ち上がり、身構える。


「誰……。って、……ええ!? 九十九院トキさん!?」


「あら? あなたは新しく入ったマネージャーさん?」


「い、いえ。わたっ、オ、オレは、この事務所に所属している者です」


 突然の来客に、ゆらぎは驚きを隠せないでいた。何故なら、今、自身の目の前にいるのは、長年の憧れを抱き、なおかつ尊敬をしている女性声優の九十九院つくもいんトキだったからだ。


 どうして、彼女がこの事務所に訪れたのか。脳裏に次々と疑問が浮かび上がる。


 目下、一つだけ分かるのは、彼女が発した『銀次』という名は、この事務所の──つまり田中社長の名前だ。


「そうなの。なら、赤坂はいないの?」


「赤坂さんなら、会議室にいるかと……。何かご用でしょうか?」


「用はあるけど、銀次がいないなら話にならないわね」


 田中社長を下の名で呼ぶほど仲がいいのだろうか。もしや、社長の恋人?


 そもそも、社長は結婚していただろうか。生憎、その辺りの記憶がない。


 九十九院は躊躇いもせずに、事務室のソファに腰を下ろした。これは、言われなくてもコーヒーを用意しなければいけない。


「あ、コーヒーご用意致しますね」

 

「あら、気にしなくても大丈夫よ。あなたは銀次と違って良い子ね」


 ゆらぎが給湯室へ向かおうとすると、彼女の魅惑的な声音によって制止された。


 あの麗しの九十九院ボイスを生で聞けるなんて、なんたる至福の時なのだろう。


 柄にもなく、ゆらぎの気分は密かに上昇していた。


 絶対に会う機会は無いだろうと思っていた相手だ。それなのに、まさかこんな所で会えるなんて思ってもいなかったのだ。


 嬉しさで、つい表情が緩んでしまう。


 ──夢なら、どうか覚めないで欲しい。


 そう、願っていたのも束の間。

 至福の時は呆気なく終わりを告げた。


「白石くん。って……トキさん!? どうしてここに……」


 事務室の扉が開き、赤坂がゆらぎに声を掛けた直後、ソファに座る九十九院の姿を見つけるなり、彼の態度は一転した。

 

「赤坂、銀次は今どこにいるの?」


「社長なら……」


 赤坂は気まずそうに、自身の背後に視線を向ける。彼の背後から現れたのは、渦中の田中社長だった。


「どうしたの? ……え! 姉さん、なんで……」


「久しいわね。銀次。私がどうして、わざわざここまで足を運んだのか。その理由が分かるかしら?」


「えっと……」


 九十九院の威圧的な態度に、田中社長はすっかり恐縮し、赤坂を盾に背後に隠れてしまった。


 その場を静観していたゆらぎが、今一番に驚いているのは、あの九十九院トキが、田中社長の姉だという驚愕の事実についてだ。


 にしても、外見は驚くほど似ていない。


 冷静沈着な赤坂でさえ、今は表情を硬直させている。


 色々と気になることはあるが、ここは席を外した方が良さそうだ。ゆらぎは気を利かせ、事務室から出て行こうとすると、九十九院に呼び止められる。


「あなたもここに居なさい。気を使う必要は無いわ。それより本題よ。今、黒瀬くんに週刊誌の記者が張り付いているのは知っているわね?」


「ああ、そのことか……。知ってるよ。今、赤坂と二人で会議してたのもその話だ」


「そう。なら話が早いわ。ゴールドセブンに気をつけなさい」


 ……ゴールドセブンって、確か、ウグイス先輩が所属している事務所だ。


 気をつけろとは、些か穏やかな話ではない。


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