第24話

 緑川は通り過ぎる瞬間に、ゆらぎの耳元に顔を寄せて、囁いた。


「うん。よく出来ました。今日、収録終わったら、このまま僕の家に直行だからね」


 ぞわりとした感覚が身体を駆け抜け、強張る。


 何か言い訳をして逃げようとしていたのに、完全に先手を打たれてしまった。


「着替え、持ってきてないんですけど」


「そんなの貸すし。ほら、ヘッドホン着けて。始まるよ」


 緑川はなに食わぬでマイク前に立ち、小さく咳払いをして、喉の調子を整える。


 その様子を、ゆらぎは横目で一瞥しながら、自身も付箋が貼られた台本を開いた。


『じゃあ、二人とも準備はいいかな。三、二、一……』


 濵田監督は音響室から収録の合図を出す。

 キューランプが灯り、二人は気持ちを切り替えた。


「──先輩はボクのものなのに……どうして、いつもキミばかりが可愛いがられるんだっ!!」


 緑川の悲痛な台詞が収録室に響き渡った。


「そんなことを言われたって……。俺だって何がどうなっているのか、分かんないんだよっ!」


 二人の演技は、台詞を重ねる毎に徐々に白熱していく。


『はい、一旦ストップ。うん、二人ともすごく良かったよ。このままでいこうか』


 監督から初めての一発オーケーを貰い、ゆらぎは思わず、緑川の方へ視線を移す。


 緑川は視線に気がつくと、口の動きだけで収録の感想を伝えてきた。


『……ご、う、か、く……』


 合格って……。しかも、そんな笑みで言われたら、ちょっと嬉しくなってしまうじゃないですか。


 ここ最近のウグイス先輩の問題行動も全て、無しにしてしまいそうになる。


 その笑顔は本当に罪じゃなかろうか。


 ──って。あの笑顔に惑わされたら駄目だ。


 実際に今、私は痛い目に遭っているというのに。



 長丁場の収録が終わり、緑川と共に収録室を出る。


「ちょっと、マネージャーと話してくるから休憩室で待ってて。勝手に帰ったら、どうなるか、分かってるよね?」


「逃げたりしません。じゃあ、休憩室で待ってます。お疲れさまでした」


 先ほどの緑川の天使のような笑みに、すっかりほだされ、ゆらぎの逃走心は完全に薄れていた。


 自販機でペットボトル入りの無糖の紅茶を買い、近くのソファに腰掛ける。


 今日の収録は、今までにない感覚だった。


 黒瀬先輩との収録でも、あんなに息の合った演技をすることはなかった。


 寧ろ、ウグイス先輩の演技に釣られて、演じている人物の感情を引き出された感じがする。


 演技に関しては相性がいいのだろうか。

 それとも、私が収録に慣れてきただけなのか。


「ごめん、遅れた」


「あ、いえ」


 思考に耽っていると、不意に休憩室の扉が開き、緑川が入って来た。

 ここは後輩らしく気を効かせて、飲み物でも買って渡したほうがいいのかと逡巡する。

 

「じゃあ、どうする? ご飯でも食べに行く?」


「え? えっと、お任せします」


「分かった」


 そう言い、休憩室を出て行く緑川の後に、ゆらぎは慌てて続いた。


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