第21話

 事務室から寮の自室に戻ったゆらぎは、午後からの収録に備えて、役作りのために台本を何度も読み込んでは物語を想像する。


 ゆらぎにとっては今回が初の主演作品。


 初日は緊張のせいか何度も台詞を言い間違い、大勢のスタッフに迷惑を掛けた挙げ句、収録時間を大幅に押すという大失態を起こしていた。


 新人だからといって、何度も失敗が許される訳ではない。改めて、気を引き締めなければ。


 心の中で気合いを入れ直したところで、携帯にセットしていたアラームが鳴り響き、時刻を報せる。


 ホッと一息をついて、台本を閉じる。


 分厚い台本に記された台詞の約三分の一は、すでに暗記している。残すべき課題は、登場人物の感情を理解すること。そして、役を演じ切るための表現力。


 頭では解っていても、実行に移すのは中々に難しい。


 ウグイス先輩のことは一旦、忘れよう。

 これ以上、彼に振り回されてばかりいては、確実に仕事に支障が出る。


 だから、何があったとしても平然を装えばいいだけだ。



 ……そう、決意を固めたものの、実際は上手くいかなかった。



 収録ブースには黒瀬とゆらぎの二人のみだった。どうやら緑川は収録日ではないらしい。


 ウグイス先輩がいないことに、少しだけ安堵している自分がいた。


 音響室から収録の合図が出されると、現場の空気が一瞬にして変わる。黒瀬の仕事用スイッチが切り替わったようだ。

 

 

「……お前、本当は男だろ?」


 黒瀬の台詞に、ゆらぎは何故か既視感を覚えた。


 自分もまた似たような言葉をつい最近、とある人物に言われたことがあったからだ。

 相手の顔が脳裏にちらつくも、無理やり振り払う。


 今は演技に集中しなければいけない。


「な、何言ってるの? わたし、男なんかじゃ……」


 無意識に台本を持つ左手に力が入る。


「だって……ほら……」


『はい、一旦止めてー』


 黒瀬の魅惑的な声音がマイクに響いたところで、濵田監督の指示が聞こえた。


 ヘッドホンを通して監督から演技の指示を受けたのは、ゆらぎだった。


『白石くん、さっきの演技ちょっと女の子によりすぎかな。もう少し、男の子を出してみようか。得意のハスキーボイスを存分に発揮して』


「はい、分かりました。黒瀬先輩、すみません。もう一度お願いします」


「おう、気にすんな」


 黒瀬は後輩の失敗を責める訳でもなく、素直に受け入れる。


 ここに緑川がいたのならば、文句の一つや二つは当然の如く飛んできたに違いない。


 緑川の自己中心的な振る舞いのお陰で、ここ最近の黒瀬の好感度はうなぎ登りで、彼がとても良い先輩に思えてしまう。


 いっそのこと、ウグイス先輩のことを相談出来るなら黒瀬先輩にしたい。けれど、自分の性別を伏せて説明するとなると、話に色々と嘘を混ぜなければならないし、それだけで一苦労しそうだ。


『じゃあ、黒瀬くんの二個前の台詞から』


 濵田監督から再び合図が出され、収録は再開された。



「お疲れ様でした」


 何度かテイクを重ねて、四日目の収録は無事に終了した。


 スタッフに挨拶をして収録室を出ると、黒瀬が声を掛けてきた。


「白石。今日、この後は暇だろ?」


「そうですね、後は寮に帰るだけです」


 今日の収録は順調に終わったお陰で、時間もいつもよりは余裕がある。


「じゃあ、久し振りに俺に付き合えよ。新作映画のDVD買ったんだ。泣けるらしい」


「へー。泣けるやつですか。恋愛物ですか?」


「そこまでは知らん。泣けるってパッケージに書いてたから買っただけだし」


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