第18話 一生の不覚。

 あまりにも突然のことで、全ての思考が停止する。一番気付かれてはいけない相手に、自身の性別を知られてしまったことに、ゆらぎは完全に気が動転してしまったのだ。


 咄嗟に嘘をつけるような余裕もなく、表情を硬直させる。


「なに……言ってるんですか。昨日も言いましたけど、オレ、男ですって。自分で言うのもあれなんですけど、こんな美男子、中々いないでしょう?」


 必死に紡いだ言葉は無惨にも、目の前でボロボロと崩れていく。行動の端々から自分が動揺しているのが、まる分かりだった。


「うん。美男子だね。でも、それは君が女の子だからでしょ? じゃなきゃ、そんな中性的な顔してないと思うけど」


 緑川の言葉は確かに正論だった。


 男性にしては細過ぎる身体の線や、男女の差が表れやすい筋肉の付き方。


 服装で体格を隠していても、彼女に対する疑念を一度でも抱いてしまえば、その他にも不信に思うところは次々と浮かんでくるだろう。


 寧ろ、今まで誰にも気付かれなかった方がおかしいのだ。


 正式なデビューを目前にして、私は事務所をクビになってしまうのか。


 目の前が真っ暗になる。


 ゆらぎの手からカップが滑り落ち、コーヒーが床に黒い溜まりを作り広げていく。


 今までの苦労が、たった一度の過ちで全てが水の泡と化してしまった。


 絶望が心のふちから湧き上がってくる。


「バカっ! 何してるんだよ! 火傷になるだろ!」


「え……?」


 突然の緑川の怒声に驚き、放心状態だったゆらぎは我に返る。


 落としたカップは見事に砕け、コーヒーは床だけではなく、ゆらぎの太腿ふとももにも零れてしまっていた。


 道理で太腿が熱いと思った。


 途端に痛みを感じ始め、ゆらぎは顔を歪ませる。


「チッ。この、バカ女が」


 何も出来ずにいると、不愉快そうに舌打ちをした緑川が、ゆらぎを抱き抱えた。バスルームへ向かい、冷水のシャワーをジーパンの上から当てて患部を冷やし始める。


「つめたっ!」


 痛みと冷たさで呻き声を上げてしまう。


「これくらい我慢しろよ。てか、手間かけさせんな。時間ないってのに」


 初めて見る緑川の焦燥に、ゆらぎは驚きを隠せないでいた。


 そもそもコーヒーを溢してしまったのは、ゆらぎの落ち度であり、どちらかと言えば緑川は被害者だ。


 あの、高級そうなカップを大胆に破壊してしまったというのに、怒るどころか火傷の心配をされるとは思ってもいなかった。


 私なら割られたカップの代金を請求するかもしれない。


「とりあえず、これで大丈夫か。下は俺のやつ貸すから。もう時間もないし行くぞ」


 緑川の手際の良い処置のお陰で、火傷の痛みはすぐに和らいだ。


 彼の服を借りて準備もそこそこに、二人はタクシーに乗り込んで収録スタジオへと向かった。


「黒瀬は知ってんの? このこと」


「いえ、知りません」


「ふーん。そうなんだ」


 然程、関心のない緑川の返事に、ホッと胸を撫で下ろした。


 性別を知られてしまったのは一生の不覚ではあるが、これ以上詰問されないところをみると、彼を信用しても大丈夫かもしれないという謎の安心感が生まれる。


「じゃあ、知られたらマズイね」


「そうですね」


「……このことは秘密にしていて欲しい?」


 緑川は悪戯めいた笑みを浮かべ、ゆらぎを見つめる。


「はい」


 無論、出来るなら秘密は伏せていて欲しい。


「なら、ボクの条件聞いてくれる?」


「条件……ですか? えっと。オレ、お金は持ってなくてですね……」


 やはり、先ほど割ったカップの弁償だろうか。しかし、所持金は雀の涙ほどしか持ち合わせていない。


 ゆらぎが自身の懐の心配をしていると、緑川が顔を近づけて耳元で囁いた。

 

「お金は要らないよ。ボクが欲しいのは……」

 

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