第15話 緑川ウグイスという人物。
収録室に入り、黒瀬は右手を軽く上げながら、椅子に座り待機している人物に声を掛けた。
「来るの遅かったね。ボクをあまり待たせないでよ」
相手は一度だけ黒瀬に視線を移すも、すぐに台本へと逸らして、少し刺の含んだ言葉を放つ。
「悪かったな」
黒瀬は彼の言葉に害したわけでもなく、素直に謝罪をして椅子に座った。
おそらく、黒瀬が声を掛けた相手が『緑川ウグイス』という人なのだろう。
緑川ウグイスは、明るめの茶髪に、どこか幼さを残した顔立ちと、鼻にかかるような甘い声が特徴的で、良い意味で黒瀬とは正反対の中性的で優しい雰囲気を持った人物だった。
街中を歩けば、芸能関係者から数多のスカウトを受けそうな見た目だが、どうやら少し口が悪いらしい。
もしかしたら、これが黒瀬との普段の会話なのかもしれないが。
ゆらぎが挨拶をするタイミングを見計らっていると、不意に緑川と視線が合い、言葉に詰まる。
「……ん? 君は誰。新人?」
「えっと……はい。白石護です。今日から、よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
意外とまともな挨拶が返ってきた。てっきり、悪態をつかれるのかと思っていたのだが。
緑川は可愛らしい顔で優しげに微笑した。その笑みは女性が見たならば、確実に恋に落ちてしまうような、エンジェルスマイルだった。
これは危ない。
迂闊にも照れてしまうところだった。
男装している身としては、不用意に感情を出して、女性だということを気付かれてしまうのだけは避けたい。
密室で男性二人と男装女子が一人。
今日から約二週間。
地獄の収録期間が幕を開けた。
「あ、待って。えっと……白石さん? だっけ」
「はい。なんでしょう」
ゆらぎが初の収録を終えて、スタジオのロビーで赤坂の迎えを待っていると、帽子を目深に被り、マスクで顔の半分を覆った緑川に声を掛けられた。
「黒瀬は?」
「黒瀬先輩なら、休憩室でコーヒーでも飲んでいるんじゃないでしょうか」
「そっか。……なら、都合がいいな」
「はい?」
一瞬、嫌な空気を感じたかと思うと、先ほどまでの緑川の優しげな態度が一転し、目付きが鋭くなった。
「ちょっと来いよ」
「いや、でもオレ、赤坂さん待ってるんで……」
突然豹変した緑川の凄みの効いた声に、ゆらぎは、たじろぐ。
「は? 先輩の誘い断るの?」
「……」
どうしてこんな時に限って、赤坂さんも黒瀬先輩もこの場にいないのだろうか。上手く立ち回れる自信が無い。
それに、これはどう考えても新人いびりというやつに違いない。きっと、緑川という人物は無名の新人が大抜擢されたのが気に食わないのだ。
「黒瀬には俺から連絡しておくから。用事が出来たから先に帰ったって」
緑川は、ゆらぎの返答も待たずに一人先に外へ向かう。
このまま緑川のことを無視して黒瀬のいる休憩室へ逃げ込むか。それとも大人しく彼に着いて行くか。だが、じっくりと考えている暇はゆらぎには無かった。
何故なら緑川が外で既にタクシーを呼び止めて、顎先で『早く乗れ』と指示をしていたからだ。
きっと、大丈夫だ。仮に着いて行ったとしても、理不尽な不満や文句を相手から言われるくらいで済むはずだ。
緑川とて、いくら何でも無抵抗の新人に手を出したりはしないだろう。
そんな希望的観測を胸に、ゆらぎは緑川が待つタクシーに乗り込んだ。
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