第8話 オーディション収録。


「白石くん、オーディションのデモテープ録るよー」


「はい。どこのスタジオですか?」


 少し緊張した面持ちで、ゆらぎは赤坂の後をついて事務所の廊下を歩く。


 正直に言うと昨日はあまりよく眠れなかった。オーディション自体はこれが初めてという訳ではない。養成所時代も何度かスタジオに赴き、デモテープを収録した経験はある。


 けれど正式に事務所に所属をして、オーディションを受けるのはこれが初めてで、緊張しない訳がなかった。


「ああ、今回はスタジオを借りるんじゃなくて、事務所のスタジオで録るんだ。だからそんなに緊張しなくても大丈夫。リラックスでね」


「スタジオなんてありましたっけ?」


「二階にね。スタジオと発声練習が出来る部屋があるよ。練習室は白石くんも自由に使っていいからね」


 そういえば、二階にはまだ行ったことがなかった気がする。最近は事務室と寮の往復しかしていないし、そもそも他の社員すら、あまり見かけない。


「あの……ちょっと、聞きにくいことなんですけど……この事務所って社員は何人くらい居るんですか?」


「社長と私を含めて十人かな」


 十人? 自分が想像していた人数よりも、かなり少ない。


 一階の受付に女性の人が一人いるのは知っていたけれど、その人を含めてもこの事務所には八人しか社員が居ないらしい。社長と赤坂さんを含めて、やっと十人。本当に小さな事務所なのだと実感させられた。


 本当なら今頃私は大手事務所で、華々しい声優デビューをしているはずだった。その為に、養成所の高い授業料をバイトを幾つも掛け持ちして支払っていたというのに、どうしてこうなってしまったのか。なんの手違いがあったのか。少しだけモヤモヤとした感情が湧き上がる。


「ここだよ、ほら」


 赤坂の声に気づいて、俯いていた視線を上げる。スタジオと書かれたプレートがゆらぎの視界に入った。


 扉はすでに赤坂が開け、一足先に室内に消えて行く。


「わ、ちゃんとしてますね」


「まぁ、本物のスタジオよりは劣るけど、設備はしっかりしてるよ。社長のこだわりだから」


 ゆらぎの失礼な呟きにも動じず、赤坂は収録スタジオの音響設備に電源を入れ始める。


「じゃあ、台本持ってブースに入って」


「あ、はい」


 久し振りにマイクの前に立ち、ゆらぎは喉の調子を確認する為に咳払いをする。


 ああ、この感覚なんか懐かしいな。養成所以来だ。


「じゃあ、準備はいいかな?」


「はい、大丈夫です。お願いします」


 小さく息を吐き、ゆらぎは自分の演技スイッチを切り替えた。



「お疲れさま、白石くん。緊張した?」


「久し振りにマイク前に立ったので、もう手汗がすごかったです」


 台本を脇に挟んで、汗ばんだ両手を見つめる。


 無事にオーディション用デモテープの収録を終えて、スタジオを出ると急に疲れを感じた。これほどまでにも緊張していたとは思わず、自分自身に驚く。


「ははっ。でも、良かったよ。オーディション通るといいね。いや、通らないと困るかな?」


「赤坂さん、プレッシャーかけないでくださいよ」


 自分なりに精一杯の演技はした。けれど、自信があるかと問われれば皆無に等しい。


 唯一救いだったのは、オーディションの台本には濡れ場のシーンが無かったことかもしれない。


 事務室に戻り、今日の予定は無事終了。午後からはアルバイトとして、赤坂の仕事を補佐することになっていた。


 というのも、ゆらぎが男装をして性別を偽っている以上、一般的なアルバイトは事務所から禁止されているのだ。


 万が一、デビューする前に『白石 護』の秘密が世間にバレてしまっては、社長の目論みも全てが白紙になってしまう。


 故に、ゆらぎのアルバイト禁止令は、そうならない為の事務所なりの安全策を取った結果だった。

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