第3話




大学四年になったばかりの時に夫と出逢った。


 意外性もなく運命的でもない、云わばありふれた出逢いだったが


 私たちはそれぞれに、四年と少しの交際期間を等身大で過ごした。




 同い年の夫には私に足りない行動力が備わっていて、


 私は夫に足りない周到さを持ち合わせていた。それは今でも変わらない。



 「相互補完は、夫婦関係にこそ重要なファクターだと思う」



 彼はそう言って、二か月ほど早く二十六となった私にプロポーズをした。


 二人の在り方を「相互補完」と表現した。


 それは社会学部に進んだ兄が、かつて私に教えてくれた言葉だ。






 だが、結婚前に過ごした四年の交際期間で、


 私たちはお互いへの認識の驕りを看過してしまっていた。


 まるで脊髄反射のように、相手のことを分かっているという前提に立っていた。




 驕りとはつまり、相手に対する都合の良い甘えだ。


 私は自らを振り返ろうともせず、夫に対して都合良く甘えていたのだ。




 私たちは、夫婦となって舞い込んだ風に


 うまく乗ることができないでいた。


 それどころか、風に気づこうともせず無神経に過ごしていた。






 夫と意見が食い違い、口論になることが増えた。


 つまらないことで言い争いをして、相手を傷つけようとした。


 相手を傷つければ、その分自分にも傷がつく。


 結婚して僅か一年、私は夫婦関係が悪化の一途を辿っているのを自覚ながら


 歩み寄る手立てを見出せないでいた。





   §





 朝から降り続く雨が、部屋の中の静けさを演出していた。


 五月雨の空を飲み込んでしまったみたいに、


 私の胸の中を厚い雲が覆っていた。


 数日前にも会っているのに、


 兄はその時より、更に痩せたように見えた。


 幾何学模様の入ったベージュのシャツに、インディゴブルーのゆったりしたコットンパンツ。


 体調が優れなくても、兄は寝間着のままで一日を過ごすことはなかった。


 サイドテーブルには分厚い愛読書。


 籐椅子は、買い替えたばかりの五代目が


 窓辺の定位置で、兄の身体を労わるように包み込んでいた。





 その五年前、家にやってきた四代目の籐椅子は可愛らしい生成色で、


 それは兄が初任給で購入したものだった。


 そして五代目はやはり兄が、退職金の中から購入した。







 国内有数のメガキャリアだけに、入社を果たせるのは各方面でも秀才ばかりだ。


 そんな同期達の中でも、兄は早いうちにスポットを浴びた。


 日比谷の本社で二年を過ごした後、抜擢されシンガポールで一年。


 そのプロジェクトが終わると今度はシカゴへ飛んだ。


 重要な役割を任せてもらった、向こうで骨を埋めるつもりでいる。


 そう語っていた兄から、病が全てを奪いとった。






 「まさかと思って『カルテ誰かのと間違えてるでしょ?』って聞いたんだよ」と、

 

 兄はまるで笑い話でもするような口ぶりだった。


 アメリカで受けた医師の宣告を、


 宿題を忘れてばつが悪いとでもいう風に家族へ打ち明けた夜の事だ。


 だけど私は、その言葉をどう咀嚼したらいいのか分からなかった。






 ある日突然、兄の会社から入った一本の電話。


 事情を伝えられた母に代わって、私に連絡をしてきたのは父だった。


 その日は仕事の帰りが遅くなり、簡単な夕食を準備していた。

 

 先に帰宅してテレビを見ていた夫に文句を言っていた時、携帯が鳴った。


 気丈に振る舞おうとする父の掠れた声が、


 他人事みたいに受話器から届くのを、私は無防備で聞いていた。


 




 兄の電話はつながらなかった。


 だから、後日実家を訪ねてきた取締役と名乗る男の謝罪を聞いても


 私はその話を鵜呑みにしたくなかった。


 兄本人の口から真相を聞くまでは何も信じたくなかった。


 それが、虚しい抵抗だと分かっていても。

  

 



 

 遠い異国の地で、自分の生涯が残り少なくなっていることを


 一人きりで聞かされる。


 そして、残された命の灯火と一人で向き合う。


 それがどれほどの衝撃で、どれほどの痛切さを伴うのか、


 私には推し量ることなどできなかった。





 兄が、いなくなる。


 「ふざけたような言い方しないでよ!」と大声をあげた私だったが、


 どれだけ涙を流しても、その運命をほんの少しでさえ変えることも動かすこともできない。


 なのに涙は後から後から溢れ続けた。




 シカゴでの兄の姿を想う。


 表れる成果と変わっていく環境、幾多の物事や人との出会い。


 仕事を通じて訪れる、刺激的な事象の数々が彼を魅了した。


 恐らくは感じていたであろう、肉体の変調に対しても


「立ち止まってはいられない」と自らを奮い立たせたはずだ。


 職場から病院へ行くよう強く促されなければ、


 兄は命潰えるまで走り続けたかもしれない。





   §





 この日も睡蓮が咲いていた。


 影になり、墨のような漆黒に染まる水面で、


 薄紫の花弁をいじらしいほど不屈に広げていた。


 私は夫とうまくいっていない。


 病と闘い続ける兄を前に私はそのことを恥じたが、手立てがなかった。


 しかし、そんなことを相談できるはずもない。


 私は、何者でもなかった頃のただの兄妹として


 穏やかな時間を過ごせれば、それでいいと思っていた。






 「こんな何不自由のない東京で生まれ育った俺たちは、


 幸福という恩恵に対する基準が、自分で思う以上に高い位置を示しているんだ。


 そのことを、ちゃんと理解しなければね。


 幸せなんて、いつも自分次第なんだから。」





 兄は窓の外に顔を向けたまま、静かな笑みとともに告げた。


 家に帰れば、睡蓮があるじゃないかと


 そう言っているようだった。





 幸せなんて、いつも自分次第――


 今、兄と私とでは、その理解の深度にどれほど差があるだろう。


 それを思うと、私の目から止めどなく涙が溢れた。


 病で痩せ細っていく兄へではなく、自分の生き様に対する涙だ。


 夫との相互補完を疎かにし続ける自分自身に対してだ。




 「ごめんなさい」



 流れる涙を手で拭いながら、私は兄に詫びた。


 兄は笑みを浮かべたまま、私を少し見やり、


 そしてゆっくりした動作で再び庭へ顔を向けた。


 振り向くようにして睡蓮を眺める兄の、痛々しく壊れそうな首筋。頬の肉が削げ落ちた顎のライン。


 だけど、その静かな微笑みは昔のままだった。





 なおも降り続く五月雨は、きっと私の心を沈めるためじゃない。


 幸せの価値を知らせようとした、優しい雨だ。




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