真幌繭のシェイクハンドドリーム 30秒の奇跡 後編
「次の人」
係の人に促されるままに私はさしこの前に進み出た。
もうそこには私が想像していた以上の眩しいほどの笑顔が広がっていた。
何だろうこの人は。周りに光が纏わりついている、周りのあらゆる光源を独り占めにして私にその微笑みを向けていた。
「時間はちゃんと守ってください」
それに反して無機質な男の人の声が耳に突き刺さる。
「はい、今から30秒」
もう時計は回り始めている。
心臓のバクバク音と闘いながら私は心のスイッチを懸命に押そうとした。
そこへ・・
気がつけばテーブルから乗り出したさしこの顔がもう私の鼻づらすれすれにあった。
おまけにその手はもう私の頭の上に添えられている。
(えっ、ええぇえっーー)
あと20秒
「ちょっとあの・・・私、えっと・・」
あと10秒
もう頭は真っ白で、手に持ったノートが歪んで見えてきて、口を開いてはいるものの
そこから出るのは泡を吹いたような空気だけ。
まるで餌をもらえない池の鯉のような姿が展開されていた。
はい、5、4、3・・・
「待って、待って、ください。私は三か月かかってこのノートを。その・・ここで・・」
もうその時、私のできることといえば手足をバタバタさせながら手に持った3冊の大学ノートを まるでコンサートのサイリウムみたいに振りまわすことだけだった
「はい。終了です。」
さしこがどんな顔をしていたのかも思い出せない。
ただ、私は軽く首根っこを掴まれ、子猫のようにずるずるとさしこの遠ざかる顔を見つめるしかなかった。
(終わった。終わってしまった)
何やってんだろう私は。私の声は一言も届かなかった。
大学ノートをビラビラさせた変な子、それだけのイメージをさしこに与えて私のAKBはこれで終わるんだ。
(繭らしい)
ママの顔が浮かんだ。ママにストップウォッチを持ってもらって重ねたリハはなんだっだんだろう。さしこの顔もまともに見れず、私が何者かという事も名乗れず私はまるでコソ泥をしでかした野良猫のように首根っこを掴まれ外に放り出されようとしていた。
でも・・その時だった。
「まだ終わってないんだけど。」
それは今まで一度も生で聞いたことのないさしこの声だった。
「規則ですから」
マスクを通した口ごもるような係の人の声が耳元で響く。
「規則。そうね。だとしたら。私がこの子に過ちを犯していたとしたら」
「・・・・」
「無暗なスキンシップ。相手の気持ちも確かめずに、顔摺り寄せて頭触って。これってハラスメントだよね」
「・・・・・」
「だから、私は謝んなきゃいけない。そうでしょ。あなた達が言う、その、何て言うの。
そう、コンプライアンス的に言えば」
「・・・・・・」
「これは事故。そう上には報告してください。
これから私はこの子に謝る。このことに関する謝罪。
だから時間は関係ない。今から起こるこの5分間は私の時間。
報告するならそう報告して。」
そう言ってさしこは先ほど以上の眩し過ぎる笑顔を私に向けた。
どこからもスポットライトなんて当たっているはずはないのに彼女のいる場所だけが光に包まれていた。
この世に天使っているんだ、私はほんとにその時そう思った。
えっと、何ちゃんだっけ。
ま、繭です。
まゆちゃん?
一字で繭と書いて繭です、カイコの・・
うんうん、いい名前
怒られませんか?
誰に?
偉い人に
かもしれない
・・・
うそうそ
わかるかな、まゆちゃん
中途半端に偉い人は怒るかもしれない
でもほんとに偉い人はこんな事ぐらいでは怒らない
秋元先生?
どうだろ?
もっと偉い人?
まゆちゃん
はい
そのノート良かったら見せてくれる?
うーん・・・
だめ?
字、汚いから
おんなじだよ、私も
さしこさんも?
じゃあ・・
あんがと。
そこからさしこは軽く微笑んだ後、ヨイショッと小さく囁いて再び椅子に座り直した。受け取った大学ノートをテーブルの上に広げ両肘をついて目線を紙面いっぱいに書き綴られた文字に落としていく。
その状況を横目で見ながら係りの剥がしのお兄さんは何やらぼそぼそと身に着けた小さなマイクに話す。後ろでは大勢の人が何やってんだこの娘はと冷ややかな視線を送ってくる。
子供心にも居たたまれない時が過ぎていく。
気にしない、気にしない
私の心を見透かしたようにさしこの声が響く。
天使なうえに周りの気遣いまでできる。この人は一体何者なんだろう。
へーそうなんだ。忘れてたわ、こんな気持ち
私もこんな時あったんだよねぇ、
そんな言葉を何回も繰り返す。
誰に何を言ってるのか。わからない。でもさしこがそのノートを真剣に見てくれている、それだけは確かなようだった。
長い長い、とても長く感じた五分間。
でもそれは今思えば何より大切で何物にも代え難い五分間。
居たたまれなくて逃げ出したくて、でも終わってほしくはない夢のひととき。
ノートを見るさしこは微笑んだかと思えば難しい顔して口をへの字に結んだり、かと思えば手で涙を拭く仕草をしてみてくれたり。おそらくそれは私だけではなく列をなして待ってくれている人たちへのさしこ流のパフォーマンスと思われた。
読み終わると最後はゆっくりとまるで宝箱の蓋を閉めるようにそっとノートの表紙を閉じた。
繭ちゃんは握手会は嫌いなんだ?
そしてさしこの最初に出た言葉がそれだった。
・・・はい
それは大変だね
はい
大変だね、主語も目的語も全部抜けて何がなんだかわからない会話。
でも私のノートを読んでくれたさしこだからこそ互いに通じる会話。
じわっと胸から熱いものが込み上げる。
もうこれで私は満足だ。ママにこれ以上の報告なんてあるはずもない。
ただね、まゆちゃん
はい?
AKB には色んな道があるのよ。
だから色んな子がいる。
みんな自分の居場所を探しながら前に進んでる。
ぱるるも由依ちゃんもそして私、指原も。
ハードルがあったら避けて通る、
目をつぶってぶつかってみる、
そしてそれでもだめなら、一旦後ろに退いて助走をつけて飛んでみる
そう言いながらさしこは再び私の頭をポンポン。
だから・・取敢えずはそこは置いといて、まゆちゃんは前を向けばいいと思う。
どう?無責任かな、こんな言い方?
私は黙って大きく首を振る。もうほんとに十分。この夢のような奇跡を消化しきれない自分がそこにいた。
ただし、AKBに入るには私の力ではどうすることもできない。それも分かってるわね。
賢明なまゆちゃんなら
はい
よし。ただ顔と声は覚えた。この中にしっかりと入った。
さしこはコンコンと中指で自分の頭を叩いて見せる
だから、もっと強くなりな。
タフになって、もっと可愛くなって指原の前に表れてごらん。
そうすれば何かが起こるかもしれない、わかる?
はい
じゃあ、這い上がってきな。待ってるよ、まゆちゃん。
私は帰って来てからもずっと考えている、このさしこの最後の言葉を。
待ってるよって言ってくれたのは次の握手会なのか、それとも・・・
とにもかくにも、それが私の初めての握手会の顛末記。
これが一生忘れることのない指原莉乃との初めての出会い。
「ふーん、やるわね、指原莉乃。思ったよりおっとこ前なのね」
「うん、思った以上におっとこ前」
「それでまゆちゃんの結論は?」
「どう思う?」
「ほらぁ、またぁ」
「ふふふっ」
実を言うと私は向こう側の人間じゃないことが今日分かった。
あそこから語りかけることのできる人。
それは選ばれし者だとは思わない。けど少なくとも今の私じゃない。
意思の強さ、正義感、怯まない心。そして裏表のない平らな心。
さしこが今日私に示してくれたもの。それは今の私には無いものばかり。
あそこに立つ資格どころか目指す資格も今の私にはない。
だから今一度来た道を振り返ってみる
今度は三分。大学ノート十冊分に想いを込める。
きちんと自分が稼いだお金で時間を買って、それでさしこと向きあってみる。
這い上がって来いとさしこは言った。
地べたの底を見れた私はもしかしたら、そうすることでもっと強くなれるのかもしれない。
「待ってるよって言ってくれたんだ、さしこは」
「ふーん。 でも、どこで?誰を待ってるのかな?」
「私でしょ」
「うん」
「秋葉原で・・・」
「なるほど」
ママが勘弁したようなため息をひとつつく。でもそこには何かから解放されたような笑みも浮かぶ。
「博多じゃなくてパパは喜ぶかもね」
────私は握手ができません。
見知らぬ人の手は握れない。それでも私はアイドルに成れますか、さしこさん。
それが実は私が一番聞きたかったことだった。
それをあの日あの短い時間でさしこは見抜いた。
そして探し当てた。
さしこは・・・
AKB には色んな道があると言った。
それをみんな探しながら前に進んでると言った。
ハードルがあったら避けて通ればいいと言ってくれた。
目をつぶってぶつかってみろと。
それでもダメなら一旦後ろに退いて助走をつけて飛んでみろと・・・
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