第107話
それはまるで、曇り空の隙間から光が差し込んできたかのようであった。
小川が流れるように滑らかに、そして余韻を伸ばして焦らすように、クーデルスの抱えた楽器から聞きなれない音があふれ出す。
すると、その美しくも鮮烈な音に、広場にあふれかえっていた人々が思わず振り返って音の源を探し始めた。
やがて人々はその音の源を探り当て、その奇妙な楽器をかかえた大柄な楽師の前に一人の踊り子がいることに気づく。
その踊り子は、まるではばたく前の鳥のような姿勢で、じっと前奏が終わるのを待っていた。
ただそれだけなのに、すでに美しい。
人々は足をとめ、今から始まる何かに期待し、芸人の作り出す世界に自ら閉じ込められる。
やがて前奏が終わり、ゆっくりとした曲調が素早く軽やかなものに変わった瞬間、踊り子は動きだした。
その瞬間、まるで全ての花が一斉に開いたかのように世界が色を帯びる。
激しい手の動きは情熱の赤、飛び跳ねるような足さばきは歓喜の黄色、滑らかにうねる全身の動きは恍惚の緑、不意にその動きを止めたならば安らぎの青。
一つ一つの動きが色の幻を纏い人々の口から洪水のように歓声が上がった。
まるでその歓声に刺激されたかのように、踊り子の動きは自由自在に、そして大胆さと繊細さを混ぜ合わせて複雑になってゆく。
それを一言で言い表すならば、まさに極彩色。
手足につけたアクセサリーが日差しを反射してキラキラと輝き、明るいオレンジの衣装を身にまとった彼女は、まさにその世界の太陽の化身である。
やがて人々は彼女の踊りによって塗りこめられた華やかな色彩の幻が何をイメージしたものかを悟った。
燦然と輝く太陽と、その光に照らされて咲き誇る夏の花々だ。
なんと鮮烈な、なんと生命力に満ち溢れた世界だろうか。
ただ……髪につけた木彫りの髪飾りだけが妙に安っぽくて、かえって人目を引いた。
踊り子に魅せられた何人もの男が、彼女のために髪飾りを送ろうと考えたのはいうまでも無い。
そして彼女がその髪飾りを受け取らなかったという事は、さらに言うまでも無いだろう。
最初の曲が終わり、アモエナがコインを入れる箱を前に出すと、周囲から雨のようにおひねりの雨が降り注いだ。
そしてそのコインの量にアモエナがにっこりと笑い、クーデルスに目配せをする。
すると、クーデルスが次の曲を奏で始めた。
その場から立ち去ろうとする者は誰もいない。
皆、踊り子の作り出す世界に閉じ込められて抜け出せないのだ。
やがて、二時間ほど踊って舞台は終わった。
さすがにアモエナも疲れているのか、肩で息をしつつ木陰にもたれて目を閉じている。
「そろそろ食事にしましょうか。
何か屋台で買ってきますよ」
気が付けば、そろそろお昼にしても遅い時間だ。
アモエナもお腹がすいていることだろう。
「……ご飯もほしいけど、それよりも冷たい飲み物がほしいかも」
アモエナが目を閉じたままそう返事を返すと、クーデルスは彼女の隣に指を向けた。
「では、そちらは自前で用意しましょう。 ……
その瞬間、アモエナのすぐ横に果実の実った小さな果樹が現れる。
「果実の中に冷えた果汁が詰まっておりますので、好きなだけ飲んでください。
あ、味はオレンジにしておきました」
アモエナは腰に刺していた日用品のナイフを引き抜き、さっそく果実に穴を開けた。
そのまま無言で中身を飲み干し、ホッと息をつく。
体の中の水分がすっかりなくなって汗もかけなくなっていたのだろうか、肌の表面に玉のような雫が浮かびはじめた。
「あぁ、ダメですよアモエナさん。
もっとゆっくりと飲みましょう。
こんな時に急いで水分をとると、体が水分を吸収するより先に汗を出し始めてしまうので体に悪いのです」
「もぉ、細かいなクーデルス。 あ、ご飯は鶏肉とお米を炒めたものがいいかも」
「はいはい。 できるだけ早く戻ってきますから、ちょっとだけ辛抱していてくださいね」
溜息をつきながら返事を返すと、クーデルスはそのままそっとその場を離れた。
そしてクーデルスは、一人でどの店がおいしいだろうかと屋台を物色しつつ幸せな妄想に浸る。
アモエナと二人で踊りながら世界を回れたらどんなに幸せだろうかと。
そして、先ほどの舞台を思い返して溜息をつく。
やはりアモエナは喝采を浴びながら踊っているときが一番美しい。
そんな彼女と永遠に暮らすことを想像すると、自然と頬が緩んだ。
だが、その時である。
ガサッと音を立てて近くの植え込みから一匹の子狐が顔を出した。
こんな大都市の真ん中に?
誰かのペットだと考えればありえる話だが、あまりにも不自然である。
そして案の定、そのキツネは音ならぬ声でクーデルスに語りかけてきた。
「幸せそうね、クーデルス。
でも、お前といっしょにいるかぎりアモエナは最高の幸せを手に知れる事はできませんのよ?
貴方が幸せだと思っている生活を、彼女が望んでいると思うのかしら?
お前といる限り、彼女は大きな舞台に立つことはできませんのよ。
きっと、何度も思い返して涙を流すのでしょうね。
それを哀れだと思わないのかしら?
ねぇ、お優しいクーデルスさん?」
次の瞬間、小狐の足元から蔓が伸び、その哀れな生き物を捕らえた。
そしてクーデルスはその小狐を片手でつまんで持ち上げると、底冷えのするような声で告げたのである。
「うるさいですよ、フィドゥシアさん。
本当に……誰も彼もが私の幸せを邪魔しようとする。
なぜ私が幸せになっちゃいけないんですか?
私がいったい何をしたというのです?」
だが、すでに西の魔王の気配はなく、クーデルスの手に囚われているのはただの小狐であった。
目の前の魔王の気配におびえ、キュゥキュウと哀れっぽい声で鳴く。
「やれやれ、とんだメッセンジャーですね。
親元に帰すのは難しいですし……フラクタ君にでも任せますか」
そして『殺害不許可。 食用では在りません』とメモ書きを添えると、クーデルスは小狐を懐にしまいこみ、再び屋台を物色するのであった。
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