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 川沿いのラブホ街、その外れにある木造アパート。窓はあるが日当たりは悪く湿気が酷い格安賃貸。角部屋の一〇一号室。一番奥の行き止まりの部屋。


ここに住んでもう四年目になるが、この部屋で過ごす夏は最悪だ。放り出された足に畳が張り付いて鬱陶しく思う。じわりと滲む汗に、夏の始まりを感じる。ふと冬の終わりに壊れたエアコンが気になりはじめる。古めかしいそれを見上げて、買い替えは妥当だろうと考える。十年以上前の機種だ。


煙草に火をつけてパソコンをぼんやりと眺める。真っ白な空間を孤独に点滅するカーソルを見ている。


 高校生の時から小説を書いている。退屈な毎日を紛らわせるためだった。この世には、金さえあれば買える刺激がいくらでもある。日本のような平和な国で大した危険に晒されることもなく淡々と日々を送っている人間ならば、そいつが余程の気狂いでもない限り映画を一本観るだけで十分な刺激が得られるだろう。


 俺の通っていた高校は一応進学校を名乗っていた。それでも生徒は、全国模試で偏差値五〇にも満たない奴ばかりだった。その反動かアルバイトは禁止されていた。だから金のかからない遊びを始めた。それが小説だった。 馬鹿しかいないその高校がなぜ進学校を自称出来ていたかと言うと、馬鹿でもいい子にしていれば推薦で受け入れてくれる大学が実際結構あったからだった。人生、どんなに笑えない人間を目の前にしても上手く笑えた者勝ちなのだと、そう思った。俺は少しも笑えない。どいつもこいつも笑えない奴ばかり。


 母親が生きていた頃は、まだ上手くやれていた。父さんと母さんと俺の三人で普通の生活が出来ていた。母さんが死んでも父さんと俺は上手くやれていた。これからも上手くやれる。そう思っていた。でも母さんがいなくなった時から、とっくに俺たちは上手くやれてなんかなかったのだと気が付いた。それが高校三年の秋。父さんが若い女性を連れてきた。仕事でほとんど家に帰って来なかった父親が、久しぶりに帰って来たと思ったら女連れ。俺は全然笑えなかった。


「お母さんだと思ってくれていいから」


その女性はそう言って、俺に優しく笑いかけた。女性の年齢を見分けるのは得意ではなかったが、父さんより俺のほうが彼女と歳が近いのは明らかだった。父さんは彼女を由美と呼んでいた。父さんは俺の母さんのことを、俺と同じように母さんと呼んでいた。当たり前だった。彼女は俺の母親になってもいいと言ったが、父さんが連れて来たのは俺の母親ではなく一人の女なのだ。


 母親を亡くしている俺の前に、なんの前触れもなく父親が連れてきた若い女。彼女は息子である俺に、この状況を少しも不都合に感じさせなかった。嫌な感じだった。その隙のなさが、気持ち悪くて仕方なかった。しかし高校を卒業してしまえば、この家を出る。そうすれば彼女と関わることもなくなる。それで十分だった。父さんには父さんの人生がある。


 天井を見上げ、紫煙を深く吐き出す。煙草は忘れた呼吸の仕方を思い出させてくれる気がする。机のすぐ側にはその中身によって厚みを増した角形二号の茶封筒が、どこに送られることもなくただ積まれていて、一年中湿気を帯びている。そしてただでさえ陰鬱なこの部屋の空気を、余計に重くさせていた。俺は今まで、自分の小説を一度も賞に応募したことがない。俺は安易に縋った小説を今更失うことを酷く恐れていた。


 ウィンドウで点滅するカーソルを見ている。点滅だ。俺は自分が、青から赤に変わるあの点滅のその瞬間を永遠に続けているのだと思った。


自由とは何だろうか。それは二七三番目の、世界中から忘れられて俺だけが思い出した地獄の名称だろうか。そこでは常に選択を迫られる。俺は今日の夕飯を決めることさえ苦痛に感じる。思えばそのせいで、もう三日は何も口にしていない。再び煙草に火を点ける。出来るだけ深く、煙を吸い込む。少しでも寿命を縮めたい。


 大学卒業まであと一年を残して、父さんは俺への一切の仕送りを断った。父さんはあえて言わなかったが、原因はきっと由美さんのことだ。俺はこの部屋で由美さんの乳房を揉んだ。


仕送りが断たれたあと、初めは真面目に働いて苦学生と言うのをやってはみたが、それは三ヶ月も保たなかった。本気で苦学生になりたかったら、まずは強く明日を望まなければならない。そして俺は今日のことさえ疎かだ。


そのまま生きて明日を繰り返して、それが一体なんだというのだ。多くの人間が勘違いしているが、生命は別に尊くなんかない。毎日、この肉体の中で大量の細胞が生まれては死んでいる。俺は積まれた茶封筒に目をやった。苦学生にはなれない癖に、俺はこれを捨てられずにいるだなんて。本当に馬鹿げている。


 そして目の前で点滅しているカーソル。俺はこれから由美さんのことを小説に書くことになるのだろう。


自分のことを母親だと思ってくれていい。そう言った由美さんは、よくこの部屋に来て、自炊をしない俺の代わりに料理を作ってくれていた。俺はそれが嫌で堪らなかった。彼女の関西風の味付けも、俺には甘過ぎて口に合わなかった。それは父さんも同じはずなのに、由美さんがそれを知らないのは、父さんが喜んで食べているからなのだろう。そもそもこんな関係はおかしいに決まっている。俺が生まれたとき、由美さんはまだ小学生だった。そんな人が全く血縁のない俺の母親代わりになろうとするなんてどうかしてる。


「この煮物どうだった?やっぱり少し濃かったかな」


俺が食べなかった料理を捨てて、その容器を洗いながら由美さんが言った。


「別に」


俺はそれ以外に言葉が見つからなかった。よそよそしく別にと言うのが精一杯の、希薄な関係。俺と由美さんはそれで正しい。

台所で洗い物を終えた由美さんが、エプロンで手を拭きながら近付いてくる。


「口に合わないわけじゃないなら良いんだけど。ちゃんと食べてるの?ちょっと心配だよ」


由美さんは俺の顔に手を伸ばした。俺は咄嗟にその手を振り払ったが、もう我慢の限界だった。


「由美さんは俺に母親のように接していいとか言うけど、それのどこがいいって言うの?由美さん、父さんより俺とのほうが歳だって近いよね。そんな男の部屋に毎週上がり込んでさ、今なんて何しようとしたの?由美さんは距離感がおかしいんだよ」


頬に触れようとするなんて。母親がそうするのと、ただの女がそうするのとでは全く意味が異なる。しかもそれが父親の女なら尚更だ。


「私は、ただ」


言い淀んだ由美さんに俺は畳み掛けるように続けた。


「もうこういうのやめてよ。俺は由美さんを母親だなんて思わないし、その必要もない。俺は父さんの子供だけど、子供なわけじゃない。もう二十歳を超えた成人男性なんだよ。俺が自炊をしなくたって、それで飯を食わずに煙草ばっか吸ってたって、それを由美さんが気にする必要なんて全くない」


掌に爪が強く食い込むのを感じる。


「由美さんは!……由美さんは!俺の父さんと寝てる。俺にとってそれだけの女だよ。父さんとは家族になったんだろうけど、だからと言って俺の家族になったわけじゃない!」


それを聞いた由美さんはエプロンを脱ぐと、静かに部屋から出て行った。これだけ言えば、由美さんはもうここへは来ないだろう。少し言い過ぎたかも知れないけど、由美さんだって悪いんだ。俺はそれを教えてやったんだ。父さんには会い辛くなったけど、ここ数年ほとんど会ってはいなかった。会う必要も感じなかった。それに母さんと過ごしたあの家は、既に引き払ってしまっていて、俺にはもう実家なんてないも同然だった。父さんは俺と二人で暮らしていた家に、今は由美さんと住んでいる。あそこは絶対に実家なんかじゃない。


 由美さんが黙って帰ってからちょうど一週間、冷蔵庫を開けると何も入っていなかった。ここしばらくは常に由美さんの料理が詰まっていて、ほとんど隙間が無いくらいだった。でも俺はそれをほとんど食べなかったから、結局のところ何も変わってはいない。


俺は煙草に火を点けて、これが吸い終わったら何か食べ物を買いに行こうと決めた。するとその煙草を吸い終わらないうちに、この部屋の玄関の呼び鈴が鳴った。宅配便の予定はないし、おそらく宗教の勧誘だろう。よく同性の二人組でやってくる。だが俺に信仰は間に合っている。決して何も信じない。それを俺は熱心に信仰している。前にそう言って断ってからは、もう来なくなったと思っていた。俺は一応のぞき穴を確認すると、その目を疑った。少し迷って扉を開けると、あの日のことなど無かったかのように、いつも通りに振る舞う由美さんが立っていた。


「……由美さん」


「もう!また煙草吸って!ちゃんとご飯食べてる?」


そう言いながら由美さんは部屋に上り込む。俺は呆気にとられて、ついそれを許してしまった。


「うわあ。冷蔵庫何も入ってない。もう本当、何食べてたの?」


由美さんは喋り続ける。


「ねえ、由美さん」


「煙草の煙じゃ栄養は摂れないんだからね!ちゃんと食べ物を食べないと」


「由美さん!」


狭い部屋に俺の声が響き渡る。


「……どうしたの」


本気で言っているのだろうか。俺がなぜ壁の薄いこの部屋で、わざわざ大声を出すことになったのか。本気で由美さんにはわからないのだろうか。


「どうしたの?どうしたのだって?俺言ったよね。もう来ないでって」


「来ないでなんて、言われてないよ?」


それでも由美さんは平然と答えた。あれだけ言ってそれが伝わらなかったとでも言うのだろうか。


「そんなこと言わなくてもわかるでしょ!俺は由美さんの家族じゃない!由美さんに俺の部屋で料理なんてして欲しくない!それに由美さんの料理は甘過ぎるんだよ。父さんは言ってくれなかったんだろうけど、甘過ぎるんだよ。それに気持ち悪いんだよ。父親の若い再婚相手がなぜか毎週欠かさず俺の部屋に来て、作った料理を食べさせられてるなんてさ。冷蔵庫開けるたび吐き気がすんだよ。それともなに?俺の、お母さんは、俺とも寝てくれるの?」


俺は由美さんを壁に追い詰める。勿論、俺は由美さんを抱くつもりなんて少しもなくて、ただ脅かすつもりでそうしたのに、由美さんの顔が女になったのを見てすっかり頭に血が上ってしまった。俺は必死で吐き気を堪えながら、由美さんにキスした。すると由美さんはそれに応えて、舌を絡ませてきた。俺は由美さんの乳房を掴んで乱暴に揉んだ。由美さんにわからせたかったのに。これでも由美さんは気付かない。由美さんは俺の耳元で甘い吐息をこぼしている。俺は由美さんを抱きたくてこんなことをしているんじゃない。乳房を揉む手の力を強めた。こんなもの、こんな汚いものは潰れて仕舞えばいい。俺は由美さんを軽蔑する為だけにキスをして、その乳房を揉んだのだ。


「……っ痛い」


顔を歪める由美さんを見て俺はさらに力を強めた。


「痛いってば!」


そう言って由美さんは俺を突き飛ばした。俺は床に身体を打ち付けて、机の角で頭も打った。大したことはなかったが場所が場所なだけに、傷口からは血が流れ出た。窓に反射して写った俺の顔には、その左側に額から口元にかけて二筋の赤い線が描かれていた。俺は動揺する由美さんを見て、嘲笑を浮かべ吐き捨てるように言った。


「痛くしたんだよ。クソババア」


由美さんは顔を真っ赤にしてエプロンも脱がずに部屋から出て行った。その月のことだった。父さんからの仕送りは急に途絶えた。由美さんが何をどう言ったのかは知らないが、そんなことはどうでも良かった。由美さんにも父さんにも、もう二度と会いたくはなかった。


 俺は書き上げた小説を印刷し終えると、新しい茶封筒を取り出して中に入れた。それから積まれている茶封筒の一番上に、またそれを重ねた。


俺は煙草に火をつけて寝転がった。そしてこれを吸い終えたら立ち上がり、何か食べるものを買いに行こう。そう思った。けれどなんだか面倒になった。何もかもが面倒になった。


行き止まりで、孤独に、点滅し、無意味に陰鬱な湿気を帯びて、もう壊れて動かない。それには部屋もカーソルも茶封筒もエアコンも何一つ関係ない。これらの全てはまさに俺そのものだ。俺は吸いかけの煙草を部屋の隅へと放り投げた。


そこには大学の教科書があって一年分の埃を被っている。俺は思った。高価なそれらはきっと紙も良質で、この部屋の湿気がどれだけ酷かろうと、ちゃんと燃えてくれるに違いない。


そしてそれらは間もなく期待通りに引火して、忽ち大きな炎を上げた。皮膚に染みるような温もりを感じながら、俺はそのまま静かに目を閉じた。

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