はじめてのなつ

斉木 緋冴。

平成最後の夏

元号が「平成」という名前になったのは、彼らが生まれる前のことで、いわゆる「平成生まれ」もど真ん中あたりに属する二人にとっては、元号が変わることも、今の天皇陛下が退位して、皇太子殿下が新しい天皇陛下に即位するということも、大きなうねりが来るのかな、くらいの社会的なイベントでしかなかった。

だから、「平成最後の夏が来る!」と、まるでお祭りでもあるかのようにクラスの人気者である川合圭太が叫んだ時、地味で目立たないように学校生活を送っている、美化委員コンビの道上エミと春川宗佑も、「はあ、そうなのか」くらいにしか思っていなかった。

 高校生活も三年目になると、教室のそこここで進路について話し合ったり、志望校を変更しようかと悩んだり、学力が足りなくて志望校を諦めざるをえなかったりして、学生はなかなか忙しい。

 ただ、学校でのさまざまな活動も三年生にはもうそろそろ終わりになるし、進学コースに所属しているエミと宗佑は、二年生からずっと美化コンビを押し付けられ、クラスで良いように使われていることもあって、「最後の夏が何?」という状態だった。

 三年生である一年間が終わらないと、美化コンビも解散できないからだ。

 ただ、コンビのふたりは、お互いに悪いイメージを持っていないのが救いで、もともと真面目なタイプがふたり集まっているので、美化委員の役割を果たすには十分すぎるくらいに、息が合っていた。

 宗佑は中学二年の途中までバスケットボール部に所属していて、肩を痛めて選手を諦めたのだが、身長はそこでは止まらず、今も一年に二cmは伸びていて、エミと美化コンビになった頃から比べると、視線が少し下がっている気がしていた。

 猫目が印象的で小柄なエミは、ストレートの黒髪をひとつに括って、制服も着崩したりはしていないが、美化コンビの片割れの宗佑と並ぶと、自分の身長があまり伸びていないことを自覚するので、正直に言うと近くに寄りたくないと思っていた。

 しかしふたりは美化委員で、委員の役目がある時には、どうしても近くに寄らなければならない。

 クラスの内外でも、この二人のことは「電信柱とセミだな」と言われていた。

 「美化コンビ」で呼んでくれるならまだしも、「電信柱とセミ」と呼ばれると、流石にそれはどうかと思うのだが、なるべく穏便に地味に学生生活を終えたい二人は、黙って言われるままにしていた。


「そーすけくん」

「道上さん」

 呼ばれた長身眼鏡くんは、呼んだ小柄猫目さんを振り返った。

 ごみを捨てに行ったはずの宗佑を探して、エミが焼却炉の側まで来ていた。

クラスの誰かがごみを足で圧縮してごみ箱に押し込んでいたので、宗佑は焼却炉の側にしゃがみこんで、片手でごみ箱を押さえて、片手でぎゅうぎゅうのごみをほぐそうとしていたところだった。

「ちょうど良かった、助けて下さい」

「良いけど、その敬語はどうにかならない?」

 宗佑は誰に対しても敬語なのだが、他に特別親しくしている友達がいないことを知っているエミにも敬語なので、エミは少々複雑なのだ。

 わたしは名前で呼んでいるのに、と。

「嫌ですか?」

 同じくしゃがんで、ごみ箱を押さえるのに加勢してくれたエミの不服そうな顔を見て、宗佑は口をとがらせた。

 お互いがしゃがみこんでいるからか、こんな時だけ視線が対等になることと、こんな時にふいに見せる子供っぽい宗佑のその仕草に、エミは苦笑してから、首を傾げて宗佑の顔を覗き込んだ。

「嫌じゃないですよ? そーすけくんの、親愛の証だって知ってますから」

 宗佑の口調を真似て、にやりと確信犯めいた微笑みを浮かべたエミの顔を見て、宗佑は顔を真っ赤にして、ごみをほぐしていた手を止めて下を向いた。

「……道上さんは……」

「ん?」

耳まで真っ赤にしている宗佑を横から覗き込んで、エミは優越感に浸っていたが、次の宗佑の言葉に、自分まで耳を真っ赤にすることになるとは、思ってもみなかった。

「すごくよく見てくれてますよね、僕のこと」

「……ばっ!」

 誰でも不意打ちを食らうと、予想外の声が口から飛び出ることがある。

 エミも例に漏れず、大きな声で「ばかじゃないの!?」と叫びかけて、慌てて自分の口をふさいだ。

 支え手を離されたごみ箱が、少しのごみを撒きながら、ごろりと地面を転がる。

「今のでドローです」

 口を手で押さえて、でも手の下で口をもぐもぐと動かしているエミの顔を見て、宗佑は笑った。

 二人は、クラスの誰にも知られずに付き合っているのである。

 秘密にしているのではないのだが、誰かに詮索されるようなこともあえてしていないので、結果、知られずに済んでいるのだ。


 宗佑とエミは、二年生の終わりに宗佑から告白して、付き合うことになった。

 今年は受験生で、既にお互いの進路が別々の大学になることも分かっているのだが、特に宗佑は推薦枠を狙っていることもあって、付き合うことがマイナスになる可能性の方が高かった。

しかし、宗佑の持ち前の真面目さと誠実さに守られて、エミも真面目ではあるが、比較的自由に「高校生の恋愛」を楽しめている。

付き合い始めて、二人はお互いがお互いのことをどれだけ大切にしていたいかを、思い知った。

エミは、たまには宗佑に甘えたいと思った時も、「そーすけくんは勉強が忙しいんだから」と自分に言い聞かせ、ぐっと寂しさをこらえていた。

宗佑に至っては、週末の図書館デートやカラオケボックスでの勉強デートでも、手を繋ぐこと以上は決してしないとエミに誓い、心乱されることがあってもじっと耐えていた。

お互い、時々泣きごとを言いそうになる自分を、お互いへの気持ちを再確認することで奮い立たせて、今に至る。

エミに言わせれば、宗佑は「誰よりもわたしを守ってくれる人」であり、宗佑にとっては、エミは「誰よりも僕を尊重してくれる人」なのだ。

もちろん、それぞれに「大好きな」という言葉を付け加えることも、忘れない。

エミにとっては「大好きなそーすけくん」であり、宗佑にとっては「大好きな道上さん」であり、それぞれがそれぞれに、「誰よりも大切にしたい人」なのだった。


「水族館、ですか?」

再びぎゅうぎゅうのごみをほぐし始めた宗佑は、エミの言葉に手を止めた。

「ほ、ほら、高校最後の夏だし! い、一日くらいなら! ……どうかなぁって、思って」

 エミは視線を外した。

 段々力を失くす言葉尻が、何だか可愛く思える。

宗佑は一瞬にして、薄暗い青い水槽の前の空間に二人で並んで立つ、という光景を想像して、口元がゆるんだ。

「な、何?」

 口をとがらせるエミに、宗佑はとびっきりの笑顔を向けて、こう言った。

「行きますか、高校最後の夏ですし」


 成績表が配布されて、悲喜こもごもの生徒たちを尻目に、宗佑とエミは、最寄り駅から40分ほどかかる水族館へ、早々に足を運んだ。

 何故この日を選んだかというと、単純に夏休みに入った生徒の中で、水族館に来る人数は流石に少ないだろうと踏んだことと、宗佑の予備校の予定が翌日から組まれていて、この日にしか一緒に自由に過ごせる時間が、取れなかったからだった。

 でも二人にとっては、滅多に出来ない遠出でもあったし、これから数が少なくなるであろうデートの分、思いっきり楽しむための日でもあったので、特にエミは、かなりはしゃいでいた。

 元々、海の生物が好きだからというのもあるが、宗佑がエミの提案で一緒に出掛けてくれるということが、嬉しくて仕方ないことだったのだ。

 二人は制服のまま、バスと電車を乗り継いで隣町の水族館まで来た。

 既に夏休みに入っている学校も多くあり、来館者の半数が児童や学生、という様子だった。

 館内は四つのテーマのコーナーに分かれていて、入り口を入るとすぐに、ベルーガが迎えてくれた。

「ベルーガ可愛い! 可愛い!」

 エミがベルーガの水槽に小走りに近付いて行くのを見て、宗佑は「そんな道上さんの方が何百倍も可愛いです……」と、ひとり呟くのだった。

 大小さまざまな水槽の前を大興奮のまま通り過ぎ、二人はイルカの大水槽の前にたどり着いた。

 そこはライトが一段、暗く落としてあり、水槽の上の方が輝いて見えるのが、自分たちまで海の底に沈んでイルカたちを見上げている感覚にさせて、不思議な空間だった。

 水槽の近くには子供たちが鈴なりになっていたので、二人はそっと手を繋いで後ろの壁に寄りかかり、しばらく言葉もなく、ぼーっとイルカの大水槽を眺めていた。

「……そーすけくん」

 しばらく続いた沈黙の後、エミは大水槽を見上げたまま、宗佑に話しかけた。

「……はい」

 宗佑も大水槽を見上げたまま、答える。

「……どして、何も、しない、の?」

 消え入りそうな、震えるエミの声に、宗佑はぱっとエミの方を見た。

 大水槽を睨みつけるようにして見上げている大きなエミの目に、今にもこぼれ落ちそうなくらいに、涙が盛り上がっているのが見えた。

 ゆらゆら、大水槽の水面に移るライトを受けて揺れている。

「……道上、さん」

 宗佑は、どうしていいのか分からず、ただ名前を呼んだ。

 喉が、これでもかというほど乾いていて、声がかすれていた。


 大切にしたかった。

 大切にしているつもりだった。

 二人が大学に合格するまでは、感情に流されるまま肉体関係を結ぶことは、決してしないとエミに誓った。

 感情のままに肉体関係に及べば、エミを傷つけることもあり得ると思ったからだし、エミもそう言っていた。

 学校で付き合っていることをオープンにしないのも、普段手を繋ぐ以上のことをしないのも、すべては二人の「これから」のためだと、そう、思っていた。

 二人で納得していたはずだった。

……それはある意味では間違っていたのだと、宗佑は今、理解した。


「道上さん」

「……名前で呼んでよ」

「エミ、さん」

「……」

 宗佑がエミの名前を呼んだだけで、エミの目から大粒の涙がこぼれる。

 エミが宗佑を見上げている。

 心細げに、不安げに。

 宗佑は、エミの頬に手を当てた。

 エミがギュっと、目をつむったのが見えた。

 大水槽のイルカが高速でぐるぐる泳いで、来館者の視線が一斉にそちらへと向けられた。

 イルカの妙技に上がる歓声。

 揺れる水面。

 青いライトに浮かぶ薄暗い空間。

 背中に当たる固く冷たい壁。

 片手同士つないだぬくもり。

 視界いっぱいの、宗佑の大好きなエミの顔。

 宗佑からエミの唇に大切に大切に落とされたそれは、羽毛が触れるような、柔らかくて軽いキスだった。


 この日から、宗佑とエミの「最後で最初の夏」が始まったのだった。

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はじめてのなつ 斉木 緋冴。 @hisae712

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