ほしがりの旅 SS(大学生)

くさかみのる

第1話

「お前、何してんだ」

 玄関を開けそう相川誠一がつぶやいたのは、高校時代に星狩係りを一緒にした笹倉舞花がずぶ濡れで立っていたからだ。

 もう夏になるとはいえ、そんな姿では風邪をひきそうだし、何よりご近所に見られたら何を言われるか。

 傘もささず、女子が一人でいたなどと知られれば、いい近所の噂話になるだろう。奥様方の口伝は光よりも速い。

 大学生になり、それぞれ違う道へ歩みだした相川達だが、家が隣なので頻繁に顔は見てはいた。元気そうだなと安心していたのに。

「相川君、お久しぶりです」

「久しぶり、じゃねぇよ。お前なぁ、なに濡れネズミになってんだ。ったく、上がれ」

「あ、えっと、いいえ、別に」

 手をパタパタと振って家に上がることを辞退される。

 相川は眉を吊り上げた。

「用もねぇのに俺の家のチャイム鳴らしたのか、お前」

「あ……いえ、ごめんなさい」

「いいから入れ」

 困ったように微笑むだけで、舞花は動こうとしない。

 幼い顔立ちを残しながらも、大人に変わっていく少女の頬を、冷たい雨水が伝っていく。

 足元には水たまりができてしまった。

「ったく」

 俯く彼女の腕を取ると一度は抵抗されたが、気にせず引っ張ると玄関にようやく入ってきた。

 扉を閉めると雨の匂いが薄まる。

 服は肌に張り付いているし、髪どころか全身がずぶ濡れだ。この雨の中、傘を差さない理由を探すが見当たらない。

「靴脱いで、あー、靴下もか。あがれよ」

「……」

 靴を脱ぐよう指示をしても、手を伸ばして上がるように促しても、動かない。

 相川は軽くため息をつくと脱衣所からバスタオルを取ってきた。できるだけ柔軟剤がきいていて、いい匂いをするものを選びたかったが、どれもこれもが硬いので適当に選ぶ。

 玄関に戻ると、舞花はやはり下を向いて立っていた。

 長くなった髪から雫が落ちている。

「ほら濡れネズミ、それで拭け。なにがあったか知らねぇけど、来るなら電話しろよ。俺がいなかったらどうするつもりだったんだ」

「……」

「おーい笹倉、お前本当に大丈夫か? 具合悪いなら将人さん、呼ぶか?」

 ズボンのポケットに入れていた携帯を取り出し、舞花の伯父である将人を探すと、携帯ごと手を掴まれた。

 痛くはないが、力の限り握られる。カタカタと震える指は、寒さのためだけではないのだろう。

 将人に連絡をしてほしくない、その思いが言葉なく伝わってきた。

 携帯を持つ手を下ろし、舞花の手をゆっくりと解く。

「わかった。連絡しないから、落ち着け」

 どうしようかと迷ったが、気の利いた言葉一つ言えない自分だ。

 濡れている頭を軽くたたいて、元気を出せと言いたがったが、相川に聞こえたのは舞花が涙を我慢する声だった。

「……お前、泣いてんのか?」

「……ごめん、なさい」

「謝ってほしいわけじゃねぇよ。もういいから、部屋入れって」

 首を振られる。

 相川は迷ったが、彼女よりずいぶんと高くなってしまった身長をかがめ、床に膝をつくと舞花を見上げた。

「どうしたんだよ。俺に何か聞いてほしいとか、してほしいって思ったから来たんだろ?」

「迷惑――」

「じゃない。頼ってもらうのは、その……嬉しいし。でもお前が何も言わないと、俺分かんねぇし」

 舞花と過ごした高校時代。その中で芽生えた彼女への想い。

 けれども隣にいたからこそ、彼女が誰を想っていたのか気づいた。

 伯父であり大人の男性、将人に心が動いている。そう分かったからこそ告白もせず、友達の立場を続けた。

 関係が壊れてしまうよりも、同じ部活動に励んだ仲間としてなら、高校以降でも繋がりが解けないのではと思ったからだ。

「あがれよ」

 舞花の手を取ると、指は随分と冷えていた。どれだけ外にいたのだろうか。ホットミルクくらいしか作れないなと考えていると、舞花はようやく口を開いた。

「ふられ、ました」

「……は?」

「将人さんに、好きですって言ったんです。無理だって、分かってたんですけど、もしかしたらって。……でも、振られちゃいました」

 泣きながら笑って、相川を見つめる瞳。

 いつでも何かを我慢して、遠慮をして、欲しいものを言わない舞花が手に入れたがった想い人。

 そんな彼女をなぜ振るのだと、将人に対する苛立ちが募ると同時に、彼女が自分を頼ってきてくれた喜びを感じたが、相川は反射的に舞花を抱きしめていた。

「あいかわ、く……服が、濡れます」

「泣いてる女をそのままにしてたら、小林にどやされんだよ」

 抱きしめた先から服が濡れていく。腕の中に収まるのは少女ではなく、もう女性。そんなことは分かっていたが離せなかった。

 自分よりも随分と小さく頼りない。そんな彼女が踏ん張って立っているのだ、支えたっていいだろう。

 舞花は逃げ出すこともせず、小さく喋りだす。

「本当は……伝えるつもり、なかったんです。関係が壊れるくらいなら、今のままがいいって、思ってたのに……。私、気づいたら、言っちゃってて。将人さん、馬鹿なこと言うなって、子供にするみたい、に……。私、本気だったんです。嘘じゃないのに、でも、ぜんぜん、言葉も、気持ちも、届かなくてっ!」

 舞花の顔が置かれている肩口が濡れていく。

 壊れモノに触れるかのように彼女の頭を撫でると、泣いているせいか熱かった。

 彼女も自分と同じように、壊れるくらいなら今の関係を続けたかったのだろう。ただ不意に想いが零れて、それが取り返しのつかないことになっただけ。

 将人にしてみれば舞花は子供なのだ。里親なのだから、その感情は当然ともいえる。

 けれども、それでも、想いを告げた方からすれば、本音を受けとめてもらえなかった事実は大きい。

「笹倉、捕まってろよ」

「え? ひあ!?」

 腕に力を籠め、舞花を抱き上げた。

 いきなりのことに驚き、パタパタと暴れているが、気にせずリビングに向かう。

「相川君、私、靴脱いでない」

「上がれって言ってんのに、ずっと無視するお前が悪いんだろ」

「でも、あの」

 リビングにつくと舞花を下ろし、靴を脱がすと、持ってきていたバスタオルで彼女の頭を拭き出す。

「あの、相川君」

「なんだよ」

「怒ってますか?」

「怒ってねぇよ」

 あとは自分で拭けとタオルを渡し、相川はもう一度脱衣所に向かうと新しいバスタオルを持ってきた。

 ついでにキッチンに寄ると、ミルクを電子レンジに入れる。

 静かな空間に電子音が煩い。窓の外は雨で、気分も下降してしまう。

 抱きしめ、担ぎ上げたせいで濡れてしまった服を身下げ、冷蔵庫に背を預ける。

「あーあ」

 損な役回りだ。好きな相手が他の誰かを想って泣いているのを慰めなくてはいけないとは。

 チン、と高い音を立ててホットミルクが出来上がる。リビングに戻ると舞花は所在なさげにオロオロしていた。

「相川君、わっぷ?」

「お、顔面でタオルキャッチ。ナイス」

「ふは。相川君!」

「はいはい、ここにいるって。ほら、これ持て。熱いから気をつけろよ」

 カップを渡すと相川は水を吸った方のバスタオルを受け取り、新しいもので舞花の髪を拭く。

 そこ以外に触れる勇気など、ありはしないのだから。

 舞花は相川を見つめていたが、しばらくして持たされたホットミルクを飲みだした。

 それからどれくらい経っただろう、ホットミルクが半分ほど減った頃、舞花がカップを置いた。

「これから、どうしよう」

「何が」

「だって、将人さんに好きって言っちゃったんです。家に帰るの、なんだか」

「あー、確かにきついな」

 振られた相手と同じ家の中というのは、どこにも逃げ場がなくて困る。

 いくら向こう側が気にしなくても、こちらが気にしてしまうのだ。

「友達の家に厄介になればいいんじゃねーの? 誰かいないのか」

「結城先輩の家は大学から遠いし、まことちゃんに頼るのは、なんだか」

「なんだよ、頼れるなら頼ればいいだろ。喜ぶんじゃねぇか、藤田」

「でも、まことちゃんは年下なんですよ」

「年下に頼っちゃダメなのかよ」

「ダメってことはないですけど。その……かっこ悪いじゃないですか」

「は? お前、自分がかっこいいと思ってたのか?」

「思ってないですけど、でも、女性にだってプライドがあるんです!」

「……小林見てみろよ」

「こ、小林先生は特別なんです!!」

「あー? ……まぁ、小林が異色で、意味分からなくて、奇行種かと聞かれれば力の限り頷くけどもだ。でもじゃあどうすんだよ、家帰んの嫌なんだろ?」

 友達の家がダメなら、将人の家に帰るしかない。

 それは分かっているらしいが、他人に弱みを見せたくないのか、舞花は友達の家に行くことを渋っている。

 嫌ですと、じっと相川を見つめていたが、しばらくして何かを閃いたのか表情が明るくなった。

「そうです、相川君です!」

「俺がなんだよ」

「相川君の家に泊まらせてもらえませんか? お隣だから、将人さんもダメって言わないと思うんです」

 名案だと言わんばかりに舞花が詰め寄ってくる。

 相川は顔をひきつらせた。

「……は、ぃ!?」

 何を言いだすのかと思えば、男の家に泊まれないかとの打診。

 ダメだろう。絶対にダメだろう。高校時代の教師である小林も住んでいる家とはいえ、同年代の男女が一つ屋根の下で暮らすのは極めてよろしくない。

 もちろん、互いに何の感情も抱いていない間柄であれば、一考でも熟考でもする余地はあるが、相川は舞花のことを特別に想っている。そんな危ない家に宿泊するなど、他の誰かが許しても相川が許さない。

「ダメだ」

「そこをなんとか!」

「ダメだったらダメだ! お前分かってんのか、この家に泊まるってことは俺とも暮らすってことなんだぞ」

「相川君だったら大丈夫です。安心です」

 安心してくれるのは嬉しいが、男として見られていないことに項垂れてしまう。

 想いがばれるような行動をしたことはないので、舞花にしてみれば相川はちょっと困ったときに頼る相棒なのだろう。

 その位置でいいと自分からポジションをキープした手前、強く断りづらい。

「笹倉、あのな」

「お願いします! この家がダメなら私、路上で暮らすことに」

「将人さん家に――あ……わー、分かった! 分かったから泣いて睨むな。俺が悪かったからそれ、以上泣くな。明日、目が腫れて開かなくなるぞ」

 惚れた人の泣き顔に強い男がいるなら是非ともお目にかかってみたい。

 相川は床に落ちていたタオルを取り、舞花の目元を押さえた。

「ダメですか?」

 我儘を言わない舞花の、我儘を言える相手となった相川だ。

 ここで断り続ければきっと、泣きたいのを我慢して将人の家に帰るのだろう。そうして目をつぶって耐えるのだ。傷付いてしまった恋心に。

 そうなるくらいなら、自分が我慢するほうがいいなと思ってしまった。これ以上彼女が泣くのなら、自分が野宿でもなんでもすればいいと。

 つくづく舞花に甘くなったと苦笑が漏れてしまう。しかし仕方がないのだろう。恋とは厄介な病気なのだから。

「……小林がいいって言えばな」

「っ!? はい!」

「ただし!」

 びしっと舞花に向けて指をさす。

 こら相川、人に指を向けちゃダメだぞぉ? とか脳内の小林が言ってくるが無視だ。

 舞花がわがままを言うなら、相川だって少しくらい欲張ってもいいはずなのだから。

「俺、もう遠慮しないからな」

「え、っと。はい」

 こくこくと頷いている舞花だが、分かってはいないだろう。

 失恋した手前、今すぐ行動を起こすことはないが、巡ってきたチャンスをみすみす逃すことなどしない。

「覚悟しろよ」

「あの、相川君。私、何を覚悟すればいいんでしょうか」

「ん? まだ内緒」

「えぇ! その、あまり難しいことはできないんですが」

「まぁ最初に頑張るのは俺だし、お前はあんま気にすんな。ほら、泊まりに来るなら服取りにいったん家帰れ。今なら将人さん、まだ帰ってないだろ」

 天文博物館にいることが多い人だ、この時間なら仕事中だろう。

 舞花はぽかーんとした様子で相川を見ている。

「それとも、俺の家でシャワー浴びてくか? 着替えないけど」

「あ、あ、相川君。えっちですよ」

 顔を真っ赤にして舞花が抗議してくるのが可愛くて、笑ってしまう。

 最初からこの家にいると危ないと言っているのに。

「男は大体そんなもんだ。お前が来るって言ったんだから、逃げんなよ?」

「あ、あの、その」

「あーったく、嘘だって。ほら着替え持ってこい。ついでに風呂入ってこい。一時間以内でな」

「一時間!? もう少し長く」

「だーめ、一時間以内。じゃないとカギ閉めるからな。秒読み開始、いーち、にー、さーん」

「ま、待ってください!!」

 秒読みを開始する相川に、舞花は慌てた様子で立ち上がり、将人の家に走り出した。

 相川は残ったカップを拾うとシンク台に持っていく。

 ことりと音を立てて置いたその音が、これからの始まりを合図しているようだった。

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