2話 捕縛
十月の頭。残っていたセミたちの喧噪もすっかり止み、紅葉が色づく季節。その日も日中から多くの老人たちが山を訪れていた。その整備された登山道を外れた山道の中、草木をかき分け二人の人物が歩いていた。
「ひい、ひい、ひい……」
喘ぐように荒い息を吐き出しているのは、童顔で小柄な少女だ。大きなザックを背負い、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「せ、先輩。もう、無理ですってばぁ! ちょっと、いったん休憩しましょ!」
前を行く人物が振り返る。二十前後と思われる金髪の女だ。少女より一回り大きいザックを背負っており、キャスケット帽を被っている。彼女は小さく舌打ちをする。
「こんなんでヘバってんじゃねえよ、
「釧路先輩の体力がおかしいんですよぉ。もう無理、私は無理です! 無理過ぎてムリーリョ(1617-1782)になっちゃう! 梃子でもここから一歩も動けませーん!」
童顔の少女はその場に座り込んだ。
釧路と呼ばれた女は、腰に手を当てる。
「そっかそっか。梃子でも動かねーとはそりゃ残念だ。実は食べログに乗ってねえそれはうめえ洋食屋を見つけたんだが、こりゃあ教えらんねーな」
「うぇうぇうぇ……っ」
「ふむ、残念だが下山したあとは私一人で行くことにしよう。あそこのビーフシチュー、まじでたまんねーんだよな。それが食えねえとは人生の喪失だ」
「う、動けます! 雪花、まだまだ動けます! 行きましょう釧路先輩!」
勢いよく立ち上がった少女の頭に、釧路はチョップをかました。
「初めかっらそうしろ、アホんだら」
「うぇええぇ……。だってぇ」
二人は行軍を再開した。乱暴な言葉を吐く女の名は
しばらく進むと前方から、せせらぎの音が聞こえてきた。草木をかき分けると目の前には渓流が広がっている。苔むした岩の間を透明な水が流れていく。
「ふいぃ、涼しいぃ……」
雪花は近くの岩盤に腰を下ろした。と、何かに気づいたのか、彼女は顔を明るくして水の中に手を突っ込んだ。彼女は茶色の生き物をつまんで釧路に見せる。
「釧路先輩、見てください。ムカシトンボのヤゴですよ、これぇ」
「ほぉ。そりゃいいもん見つけたな」
「はい。かなり大きいですね。もう終齢直前かも!」
ムカシトンボはその名の通り、太古のトンボの特徴を色濃く残している。ヤゴは綺麗な渓流に生息している。ムカシトンボのヤゴは幼虫の期間が長く、成虫になるまで5年から7年かかる。ヤゴはキシキシと腹を鳴らして警戒音を立てていた。
「そいつも希少だけど、今日の目的とはちょっとちげーからな」
「ですよねぇ。大きくなってねぇ」
雪花はヤゴを川の中に戻すと、「バイバイ」と手を振った。
「雪花、準備しとけ」
「はいっ」
釧路はザックを地面に下ろした。ザックを開けると、四角い装置がぴったり収まっている。釧路のザックは改良が加えられており、背面、そして両側面の下方に穴が開けられている。彼女は両側面の穴から装置に繋がっている銀色のロッドを出すと、改めてザックを背負った。一方、雪花はバッグからたも網を取り出した。伸縮性のロッドを限界まで伸ばす。
釧路は上流を眺めた。涼しい風が吹いており、髪を撫でる。二人は草むらへと戻ると、腰を低くして姿を隠し、渓流に沿って歩き出した。
「先輩、今日は捕まえられますかねぇ?」
「……」
「前回は一匹だけでしたけど、今回は二匹くらい捕まえたいですよね。そうすればたんまりお金も手に入ってもっと美味しい食べ物が……。って、こういうのって取らぬ狸、というか取らぬヨウセイの皮算用ですねぇ!」
「……」
「それにしても私たち、こんなひそひそ行動してなんかゲリラっぽいですよねぇ。チェゲバラっぽいですよなんかぁ。チェケラチェケラ!」
「雪花、黙れ」
「うぇえ? な、何でですかぁ。私の話、そんなイマイチでしたかぁ?」
「イマイチじゃなくてクソつまんねーんだよ」
「うぇぇ、ひ、ひど……」
「それは置いといて、今は別件だ。いる」
「つ、つまんなかったですかぁ? って、いる? え? ど、どこですか?」
雪花は目を細めたが、何も見つけられなかったのか首を傾げた。
「まだ見えてないけど、いるんだよ」
「ええ? 心眼ですかぁ」
「分かるんだよ。同じとこに何百回も来てりゃぁ感覚でな」
釧路は音を立てないように進んでいく。感覚、というよりは経験則か。幼い頃から野山を駆けまわってきた。ヨウセイに適した気温、湿度などには人一倍敏感だ。
釧路は足を止めた。目線の先には小さな滝つぼがあった。水面は翡翠色に輝いている。距離にして5メートルほど。滝つぼ近くの苔むした岩に四つの影が見えた。苔と同色で分かりづらいが――薄緑の体色をしているゲツガコウヨウセイだ。四匹のうち二匹は体長10センチほどで成体、もう二匹は5センチほどの幼体だ。典型的なヨウセイの集団だ。日中だからか動きは鈍そうだ。
(わわ、本当にいますよぉ……)
(おい、雪花)
釧路は目配せをした。雪花はこくりと頷くと、釧路のザック背面を開けた。中に納まっている装置、その背面にあるスイッチに手をやる。
釧路はヨウセイから見つからないよう腰を低くし、ロッドを前に差し出した。先端を滝つぼの中へと深く突っ込む。
釧路は息を止め、じっとヨウセイを見つめる。
成熟したヨウセイの一匹が岩から降り、足を水面につける。
「ゴー」
雪花がスイッチを入れる。ブゥン、と釧路の背負った装置から低い稼働音がした。バッ、とっロッドの先端から鋭い音が鳴る。水際にいたヨウセイの動きが止まり、背中から水へと倒れた。異変を察知した周囲の三匹がいっせいに飛び立つ。
「ふぅーっ! 御用だ!」
ゴム長靴を履いた雪花が水に飛び込んだ。彼女は手に持ったたも網を空飛ぶヨウセイ目がけて振り下ろす。一匹、成熟したヨウセイは素早く網をよけて渓流の奥へと飛んでいった。だが、もう二匹はすっぽりと網の中に納まっていたあ。雪花は水に浮いているヨウセイを掲げた。
「や、ややや、やりましたぁ、先輩! 取ったタヌキの皮算用!」
「っし、上出来ぃ」
釧路は小さくガッツポーズした。
雪花が満面の笑みを浮かべる。
「先輩先輩、これで今夜はその洋食屋でビーフシチューですねぇ!」
「自家製サングリアがクソうめーんだよそこ。期待しとけ」
「きゃっほう!」
雪花は水の上で大きく飛び跳ねた。
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