10話 饗宴
ゲツガコウヨウセイ
哺乳綱
偽獣亜綱
コビト目
ユウヨクコビト亜目
ヨウセイ上科
リンモクヨウセイ科
リンモクヨウセイ属
ゲツガコウヨウセイ
これは後に調べてわかったことなのだけれど、ゲツガコウヨウセイが日本で初めて発見されたのは1935年、東京帝国大学の動物生態学研究者である
だが――。
「キャハ、キャハハハハハッハハハハハハハッハハハハハハハハハハハハッハハハハハハハッハハハハハハハハッハハハハハハハハハハハッハハハハハハハハハ!」
がたがたと激しく網戸が揺れる。何百ものヨウセイたちが真ん丸な瞳で私を見つめ、白い歯を見せつけ、高笑いする。頭に響く笑い声だった。その圧倒的な数に気おされてしまう。ヨウセイは通常数匹、多くても十数匹で行動すると言われているらしい。こんなにたくさん集まることがあり得るのか?
「……っ」
ヨウセイたちが笑いながら向かってきて、網戸に激突する。私はサッシを勢いよく閉めて鍵をかけた。次の瞬間、網戸が外れて庭へと落ちる。もし閉めるのが一瞬でも遅れていたら侵入されていた。ヨウセイたちはなお、サッシに激突してくる。べたべたと、ヨウセイの小さな手のひらがサッシの向こうに張り付く。
「キ、キィ。キイイイイイイイイイイイイイイィッ」
「な、なに。なんなのこれ……っ」
ヨウセイたちはサッシを激しく叩いている。明らかに、強い意志を持ってこの部屋に入ってこようとしている。狂乱、という言葉がふさわしい状況だった。
ばんばん、と御勝手の方からも叩くような音がした。はっとする。御勝手にも正方形の小さな窓があり、網戸になっていることに気づく。急いで向かうと、小さな窓にヨウセイがべったりと張り付いていた。網戸を外からこじ開けようとしている。
「キハ、キハハハハハハハハハハハッ!」
急いで窓を閉めようとする前に網戸が外れた。中へとヨウセイが三匹入り込んできた。台所を縦横無尽に飛び回っている。身体が大きくつっかえてるが、窓からはさらにヨウセイが侵入しようとしている。
「だ、駄目っ!」
私は窓を閉めた。ちょうどヨウセイが窓枠に上半身を突っ込み、潜り込もうとしているところだった。ヨウセイの身体が、閉めた窓と壁との間で板挟みになる。手に、柔らかい身体が挟まれて潰される嫌な感触。
「グキッ。グギ、ィイイイイイイイイイイイイイ」
「あっ……」
ヨウセイが断末魔をあげた。私は急いで、窓を再び開く。ヨウセイの身体に窓の鉄部分がくっきり食い込み、ひしゃげて潰れている。ヨウセイの骨格は、頭骨や背骨などの一部を除いて軟骨で構成されている。非常に脆く、ショックに弱い。
「ギ、ギイイイイイィッ。ア、ギィイイイイイイッ」
ヨウセイは窓枠の上で手足をばたつかせている。ぶっ、と小さな口から血が噴き出し、二度痙攣したように震えると動かなくなった。窓の外に集まっていたヨウセイたちはその様子を見て散っていく。
……。
死んだ。
私が殺した?
「ち、違う。わ、私はそんなことするつもりは――っ」
がたん、と背後で音がした。
弓がソファから立ち上がっていた。
「ゆ、弓。無理しちゃ駄目!」
「ふ、ふふ。うふふふふふふふふふふふっ」弓はぎしぎしと笑っている。
部屋の入った三匹のヨウセイは弓の周りを飛び回っていた。弓は庭へと向かって歩き出す。彼女は、私が閉めたサッシに手をかける。
「ゆ、弓!? 何やってるの! 開けたらヨウセイが中に――」
弓が首だけでこちらを振り向く。彼女の右目は上を、左目は下を向いている。だらしなく緩んだ口元からは唾液が垂れていた。ぐふぐふと、彼女は笑う。
「あは、楽しい。楽しいね、琴子。うふ、うふぶふふふふっ」
「駄目、弓! ヨウセイを中に入れちゃダメ!」
「何言ってるの琴子。ヨウセイが、ヨウセイがこんなに飛び回ってるんだよ。福は内だもん。うふ。ああそうなんだ、ここが桃源郷だったんだぁ! ああ、幸せ。幸せ幸せ幸せ幸せ! 来て、来て来て来てっ!」
弓はサッシを開け放ち、両手を大きく広げた。ヨウセイたちを迎え入れるように。
「キヒ、アハハハハハハハハハハハハハハハ!」
大量のヨウセイたちが部屋になだれ込んでくる。電灯や家具、コップにぶつかりながらヨウセイは部屋を飛び回った。狂乱した笑い声が部屋にこだまする。
「あは、あはははははっ!」
ヨウセイと呼応するように弓は笑い、庭へと飛び出した。外にいたヨウセイが彼女に群がる。部屋へ飛び込んだヨウセイも彼女を追って外へ出て行った。
「……!? ど、どういうこと?」
弓には群がるのに対し、私の周りには一匹も寄って来ない。ヨウセイたちが見つめているのは弓だけだ。まるで初めから弓だけを目的としているような――。
弓の頭に、肩に、手に、ヨウセイたちが飛び乗った。
「あは、あははははははっははははははは! 琴子、ねぇ、琴子もこっちへ来なよ! 楽しい、楽しいよ。幸せが、私たちの幸せがここに――」
淡い月光が降り注ぐ庭で、弓が空へと手を伸ばす。弓の手をベンチにするかのようにヨウセイたちが次々と飛び乗った。ヨウセイは体毛の生えていない頬を弓の腕にすりよせ――弓の腕に噛みついた。
「!?」
その一匹を皮切りに、次々とヨウセイが弓に噛みついていく。それだけじゃない。ヨウセイたちは爪を弓の肌に突き刺した。薄皮が切れ、血が噴き出す。
「ゆ、弓! 弓っ!」
「あは、あははは。あははははははははっ!」
それにもかかわらず、弓は幸せそうに笑っている。弓とヨウセイの笑い声が混然一体となっていく。もはやどちらが笑っているのか私には区別がつかない。ヨウセイに囲まれ、中心にいる弓の姿は目視することさえ困難になっていた。
「……っ!」
私は庭に飛び降り、ヨウセイの群れへと飛び込んだ。私が近づくにつれ、ヨウセイはばらばらに散っていく。きぃきぃと騒ぎ立て、夜空へと飛び立っていった。どうして弓には群がり私から離れるのだろうと考えたところで、気づく。
私の胸ポケットにはヨウセイの死骸が入っていた。ヨウセイは傷つくと敵の存在を知らせるために警戒フェロモンを巻きちらす。だとすれば私は今、多量の警戒フェロモンをまとっているのではないか。一方の弓は、霧吹きを使い集合フェロモンを振りまいていた。それらが服について、ヨウセイを誘引してしまっているんじゃ――。
「弓! 手を、手を伸ばして――」
私はヨウセイをかき分ける。弓を引っ張り出そうと手を伸ばしたが――私の手は空ぶった。
「……え?」
ヨウセイが霧散していく。しかしそこに、弓の姿はなかった。マジックのように、彼女は跡形もなく消え失せていた。
「ど、どういうこと……? ゆ、弓! 弓っ!」
ぽた、と頬に雫の落ちる感触。雨でも降って来たのかと思って空を見上げる。月光を背にして、光り輝くヨウセイたちが無数に飛んでいる。
クスクスクスクスクスクスクスクス。
キャッキャッキャッキャッキャッツ。
キャハハッハハハハハハハハハハハ。
こちらを見下ろして笑いあうヨウセイたち。その手に何かが握られていた。目を細めてよく見ると、それは千切れた耳だった。半分に引き裂かれた眼球だった。厚い唇だった。歯がずらりと並ぶ歯茎だった。髪のついた頭皮だった。黄色い脂肪がまとわりつく乳房だった。肉のついた大腿骨だった。血のしたたり落ちる肝臓だった。ホースのように細長い小腸だった。ついさっきまで弓の頭に収まっていた、脳だった。
何百、いや何千ものヨウセイたちは単体で、また数匹で支え合いながらついさっきまで弓だった肉塊を持ち運んでいた。
「あ、あ、ああああぁ……」
「キャハ。キャハハハハハッハハハハハハハッハハハハハハハハハハハハッハハハハハハハッハハハハハハハハッ。キハハハハハハハハハハハッハハハハハハハハハ」
ヨウセイたちは笑う。
無邪気に、楽しそうに笑う。
ばらばらになった弓の身体を持ち、そのまま夜空へと浮かび上がっていった。
――私の記憶は、ここで途切れている。
※1 ヴィルヘルム・ブロムメ(Wilhelm Bromme)。ドイツの博物学者。哺乳類の分類学的研究で知られる。
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