8話 崩壊

 バチバチバチ、と暗闇で輝くスタンガンの閃光。

 弓はじっと私を見つめていた。


琴子ことこ……お風呂場を見たの?」


 私はむせび泣きながら、首を縦に振った。


「……見た。全部、見た」

「ふぅん……。そうなんだ」

「ねえ、弓。あれは……あなたのお父さんと、お母さんと、お婆ちゃん?」

「うん」弓は頷く。

「あなたがやったの?」

「うん」弓は頷く。

「本当にあなたが殺したの? ねえ、弓。嘘だって言って――」

「うん、私がお父さんとお母さんとお婆ちゃんを殺した」弓は頷く。


 ぽろぽろと涙が溢れ、視界がかすんでいく。

 そんな私を見て、弓は不思議そうに首を傾げた。


「琴子、どうしてそんなに悲しそうなの? あの人たちが殺されたのはしょうがないんだよ。だってさぁ、私と琴子を引き離そうとしたんだから」

「え……?」

「あの人たちこの前、なんて言ったと思う? 小学生の頃は琴子を見てまともな友達ができたとか喜んでたのにさ。それが今じゃあ、付き合う友達を選べ、だってさぁ。いつまでもあんな子と、気持ち悪い生物遊びを止めろだって。受験に本腰を入れろだとか。笑っちゃうよねぇ。本当に勝手だよぉ。バカ。バカばっか。本当にバカ、バカバカバカバカバカバカバカッ! この世ってどいつもこいつもバカばっかだよ。私と琴子を引きはがそうとするなんてあり得ない。だから――」弓の声がすっと低くなった。「寝込みを襲って殺したの。あっけなかったよ」


 口を開け、茫然としてしまう。 

 私のことを悪く言った――それだけの理由で実の両親を殺したというの?

 あまりにも意味が分からない。

 いや、もうまともに考えるだけ無駄なのかもしれない。

 これは弓であって、弓でない人間だ。

 破綻している。狂っている。


「あの女もそうだよ。榎本夏木」ぺっ、と弓は廊下に唾を吐き捨てる。「琴子になれなれしくすり寄ってさ。私と琴子を引き離そうって魂胆が透けてるよ。本当に嫌らしい。あんなやつ消えた方がいい。死んだ方がいい。私が殺した方がいい!  そう、そうすべきなんだよねえ! そうすれば私たちは、琴子と私はさぁ――!」


 少しでも、警察への通報を躊躇した私が間違っていたんだ。飼育していた生き物を放置し、ヨウセイを殺し、実の両親にまで手をかける。彼女は最早、血も涙もないただの殺人鬼だ。私の知っていた弓じゃない。


「そうすれば、私と、私と琴子はさぁ……!」


 突然、ガタンと音を立ててスタンガンが彼女の手から落ちた。

 え、と思った。どうしてこの局面でわざわざ武器を放置するのだろう。


 そこで私は気づく。弓の様子がおかしい。彼女は頭を手で抱えている。目の焦点が定まっておらず、足元はふらついている。口元がゆるんでいる。


「ふふ、ふふふふうふふ。そうすれば、私たちは、私は、私は、私は――っ」


 弓は笑っていた。しかしその瞳からは涙がぼろぼろととめどなく溢れている。弓は自らの口を手で押さえた。口から、嗚咽と笑い声が混ざって漏れ出ている。


「ふふふふうぅ……。そうすれば私は、またあの、楽しい日々へ戻れるんだから!」


 ――楽しい、日々?


 弓は笑いながら、ぼろぼろと涙をこぼす。


「また二人だけで電車に乗って江ノ島にも行ける! 山口湾でカブトガニも見られる! 奄美で今度こそはアマミシリケンイモリを捕まえたい! もう一回あなたと、クジラも見に行きたい! 全部、全部全部、元通りなんだから! そうだよ、琴子は全部私のものなんだから! あの日から琴子は全部私のもの。あなたは私のもので、私はあなたのものだもん! 他の奴になんて譲んないっ、渡さないっ! あなたは私だけ見てればいいに! だからっ……! だから、だからだからだからっ……」


 彼女はその場にぺたりと座り込む。笑い声はもう止まっていた。彼女はただ、ぼろぼろと涙を流し、子供のように泣いている。


「う、うぅ……わ、私から、私から、離れないでよぉ、琴子ぉっ……」


 そのまま彼女は、わんわんと泣き始めた。こちらを見つめる彼女の瞳。それ私と彼女が初めて会った日に、一人で泣きながらアオダイショウの墓を掘っていたのと同じ瞳だった。狂気の片鱗は跡形もなく失せている。彼女は殺人鬼ではなく、私の、十年来の親友である入月弓に戻っていた。


「弓……」


 私は弓に近付いた。弓は顔を涙と鼻水でべたべたにし、嗚咽を漏らしている。弓は私のブラウスをぎゅっと掴むと、胸の中に顔をうずめてきた。彼女の全身はぶるぶると震えている。


「こ、怖い。私、怖いよ、琴子……うぅ。怖い、怖い……。ううううぅぅ……」


 子供のように、彼女は泣きじゃくる。

 私は彼女の背中をさすった。


「何が……何が、怖いの」

「こ、琴子は、あなたは私と違ってた……。私なんかとは違って、明るくて、社交性があって、友達がいて……そんなあなたが私みたいな人間とつるむなんて、おかしいと思ってた……。もっと相応しい居場所があると思ってた……」

「そんなことない。私は、弓といるのが楽しかったの。だからあなたと一緒に――」

「わ、私っ、榎本と楽しそうに話してる琴子が、怖かった……」

「……!」

「榎本と楽しそうにしている会話が、部室から聞こえるたびに、自分がハブられてる感じがして、部屋に入れなかった。……私を置いて、琴子がどんどん遠くへ行っちゃう。怖い、怖い、怖いよぉ……。い、行かないで。行かないでよぉ。琴子が私から離れてったら、私は、私にはもう――なんにも残ってないんだから……っ」

「……」

 

 窓の外に目をやる。陽はもう完全に沈み切っていた。東の空にある月を見つめながら、私はぼんやりと考える。いつから弓はこんなにも追い詰められていたのか、と。


 夏木の言葉を思い出す。


 ――いや、だってほら……入月先輩って、最近、部室に来ないじゃないっすか?

 ――その……自分は、その原因が、自分にあるんじゃないかって思うんすけど。


 前兆は確かにあった。弓の様子は着実に変化していて、気づけたはずだ。でも、愚鈍な私はそれに気づかなかった。弓が部を休んでも勉強が忙しいのだろうという理由をかこつけ、ろくに心配もしなかった。自分の友人を放置した。

 

 だとすればそれはもはや罪だ。

 私は一人で苦しんでいる彼女を見殺しにしていたんだ。


「……わかってる、自分がバカだってことはわかってる。琴子は何も悪くないの。榎本だって、本当は全然悪くなんかない……っ。間違っているのは、私だけなんだってことぐらいわかってる……。間違ってるってことはわかってる。わかってるけど、でも、どうしようもないの……。どうしようもなかった。だから、だから私は……」


 ――だから弓はヨウセイに縋った。


 どうすればいいのか分からず、科学的根拠のない迷信を信じられなければならないほど追い詰められた人物。私はそれに心当たりがある。十年前、私を大妖精展に連れて行ってくれた父。母が末期癌であることを知っていた父は、魂の入っていないヨウセイの死骸に願いを託した。そのときも、私はそれに気づきもしなかった。


「おかしい、おかしいの……。私もう駄目なんだ。頭おかしくなってるんだ……」弓は口元を抑え、鳴き声を押し殺している。「ヨウセイを殺すつもりなんてなかった。お、お父さんもお母さんもお婆ちゃんも、殺すつもりなんてなかった。ペットも放置するつもりなんてなかった。全部全部全部、殺すつもりなんてなかった……。なかったのに、殺しちゃった。おかしいの。頭の中がじんわりとして、温かくなって、変な気分になっちゃっう。もう、頭がおかしくなっちゃったんだよぉ……」

「そう。そうだったのね……」

「し、信じてくれないでしょ。こんなの……」

「信じる」私は震える弓の身体をきつく抱いた。「友達だもの」


 初めて会った日、弓は校庭の端っこに墓を掘っていた。周りの児童がアオダイショウの死骸を見て汚いだとか罵っても、一人でじっと。それを見て、私は彼女と友達になりたいと思ったのだ。


「ねえ、弓。聞いて」


 私は、泣きじゃくっている弓に語りかけた。彼女は顔を上げ、真っ赤に泣きはらした瞳でこちらを見つめている。


「私から一つ、提案があるの」

「提案……?」

「ええ。今度も、私に手伝わせてくれる?」


 私は息を吸い込み、その言葉を紡ぎ出す。


「死体を埋めましょう」


 あなたが穴を掘るのなら私も一緒に掘ろう。

 前みたいには戻れない?

 なにバカなことを言っていたんだろう、私は。

 十年前のあの日から、私たちは何も変わってない。

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