幕間 安曇琴子

 私――入月いりつきゆみが初めて「それ」を見たのは小学二年生のとき、夏休みに入る少し前のことだった。ランドセルを背負って門を出るとき、空が綺麗だなぁと思ってふと顔を上げると、視界にそれが入った。


 毛一つ生えてない薄緑色の身体。贅肉のついてない細い手足。まん丸い大きな瞳。背中から生えた四枚の羽根をはばたかせ、優雅に空を舞っていた。

 

 ヨウセイ――19世紀までおとぎ話の中にしか存在していなかった生物。祖母が「裏山では昔ヨウセイが目撃されたことがある」なんて言っていたけれど、本当だったなんて。ヨウセイは裏山のほうへと飛んでいき、すぐに見えなくなった。

 

 ヨウセイを見た者には幸せが訪れるという逸話が頭をよぎる。


 けれど当時の私は、そんなこと信じられなかった。重い足取りで、集団登校の待ち合わせ場所へと向かう。足を一歩踏み出すたびに下腹部がきゅっと痛くなる。


 近くにある駐車場で、他の子たちが私を待っていた。私と同学年の男子二人が、顔を見合わせてくすくす笑っている。「キモ」と小さな声が聞こえた。私にとって学校は、苦痛でしかない場所だった。






 物心ついたときには、もう爬虫類や両生類のとりこだった。自分が興味を抱いた理由をよく覚えていない。恐らく、幼い頃から沢山の生き物が身近にいたからだろう。庭も裏山も私にとって最高の遊び場で、人間よりも爬虫類と触れあう時間のほうが多かった。


 小学校に入り、自己紹介で「爬虫類や両生類が大好きです」とアピールした。基本は一人で行動してたので、同じ趣味の子がいれば友達になりたいと思った。でもみんなの反応は冷ややかだった。男子ならまだしも女子の私がヘビを好きだと公言するのは、気味悪がられてしまった。クラスの人気者だった女の子が、爬虫類や両生類系の生き物が大嫌いだったというのも不利に働いてしまった。


 気持ち悪いだとか、臭いだとか、菌がいるだとか、そんな陰口をたたかれるようになっていた。 私が反撃しないからか、苛めはどんどんエスカレートしていき、外掃除の際にトカゲの死体を投げられたなんてこともあった。男子たちは悲しそうにする私を見て、ぎゃはぎゃはと浅ましく笑ってた。


 友達はいなかった。一人として。


 他の子たちが放課後に友達の家でゲームをしている中、私は一人で裏山の麓を散策して生き物を捕まえていた。でも、当時の私はそれでいいと思っていた。人間の友達なんか欲しくない。ヘビやトカゲたちのほうが一緒にいて楽しいんだから。





 

 だから私はその日の朝、ヨウセイを見ても自分に幸せが訪れるなんて思ってもいなかった。むしろヨウセイを見たことで幸運を使ってしまい、不幸が訪れるんじゃないかなんて予想までしてた。それは半分当たって、半分外れだった。


 事件は給食の後、昼休みに起きた。


 教室の外、校庭がやけに騒がしい。何人もの児童が集まって、職員室から先生まで駆けつける始末だ。校庭から「毒ヘビが出た!」と誰かが叫んだ。


 毒ヘビ? この市は田舎だけれど小学校は街の中心、市街地にあった。こんなところに毒ヘビが出るだろうかという単純な疑問。

 

 私は上履きのまま校庭に飛び出た。すでに児童が二、三十人近く集まっていた。私は無理やり分け入って前に出る。


 みんなの視線の先、木陰に体長40センチほどの幼蛇がいた。身体には茶色の紋が浮かんでいる。鎌首をもたげて、こちらを真ん丸な瞳で見つめている。


「近づくな!」

 

 体育の先生がひときわ大きな声を張り上げた。私を含めて辺りのの児童はびっくりしてしまい、後ずさる。体育教師はなぜか大きな金属バットを持っていた。


「離れてろ、マムシだ! 噛まれるぞ!」と体育の先生。

「そう、マムシだ!」男子が叫ぶ。私をにトカゲを投げつけた奴だ。「凄く強い毒ヘビなんだってさ! 噛まれると足が腐って死んじゃうらしいぜ!」


(マムシ……?)


 何を言っているんだろう、と思った。

 だってこれは、マムシじゃなくて明らかに――。


「先生、早く殺して!」「お願い!」「ええ、ちょっとかわいそう……」「でも噛まれたら死ぬんだ?」「やっつけて!」「やれ、やれやれやれ!」「やっちゃえ!」


 児童から、ヘビの殺害コールが響く。先生が袖を捲った。筋骨隆々とした腕が現れる。彼はバットを持ってヘビに近付いていく。


「ちょ、ちょっと、待っ……」

「やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ! やれ!」


 私の声は周りにかき消されて届きもしない。

 駄目、殺す必要なんてない。

 だってそのヘビは――。


 先生は、じっと動かないヘビに、バットを振り下ろし――。


「待って!」


 凛とした声が響いた。

 児童たちのコールも、先生の動きもぴたりと止まる。


 私の前に、一人の女子が飛び出した。背中まで届く長い黒髪が印象的な女の子だった。ぱっちりとした目をしており、どこか芯の強さを感じさせる。


「ちょっと待って、先生。この子が、言いたいことがあるみたい」


 そう言って彼女は、私へ手を差し出した。


「え? え、え……」突然のことに困惑してしまう。

「何か言いたいことがあるんじゃないの?」

「え、いや、あの……ち、違うと思って……」

「違うって何が?」と先生。


 私はヘビを指さした。


「それ……マ、マムシじゃない。アオダイショウの幼蛇。毒は持ってない……です」

「え? 毒蛇じゃないの?」ざわざわと波紋が広がっていく。

「嘘だ!」クラスの男子が叫んだ。「アオダイショウにはそんな模様なんかないんだぞ! その模様があるのはマムシだ! マムシの毒はむっちゃ強いんだぞ!」

「模様があるのは、これが幼蛇だから……。大きくなるにつれて、薄くなって消えていくの。それに一番分かりやすいのが……ヘビの目。その子の目、瞳が真ん丸です。マムシの場合はもっと細いんです」


 アオダイショウの幼蛇とマムシは模様が似ていて、間違って殺されることも多い。しかし、それはあくまでヘビを全く知らない人目線のだ話。実際、模様は間違えようのないほど違うし、瞳、頭の形からも違いが判断できる。一目でマムシじゃないことは分かった。


「じゃあ毒は持ってないのか。しかしこのまま放置しておくわけにも……」と先生。

「だ、大丈夫です。アオダイショウは大人しいから、そのままにしておけば……」

「なに、そうなのか? ……それなら、いいか。ほら、戻れ。授業始まるぞ!」


 校舎から、授業開始5分前の鐘がなった。先生の一言で、児童たちは校舎に戻り始める。私は、女の子にお礼を言おうと思ったけれど彼女はすでにいなくなっていた。見たことがある顔だった。同じクラスになったことはないけど、確か同学年で隣のクラスの――。


「くそ!」


 後ろで叫び声が聞こえた。振り向くと、マムシだと主張していた男子が一人木陰に残っていた。彼は涙目になって、私を睨みつけていた。






 授業が終わると、私はすぐに校庭へと向かった。アオダイショウがどうなったか気になっていた。ちゃんと逃げてくれただろうか。


 木陰に行き、私は目を瞠った。


 アオダイショウの胴体は、大きな石で無残に潰されていた。血肉が周囲に飛び散っている。アオダイショウは口を開け、目を見開き、ぴくりとも動かない。


「……うぅ」


 ぺたりと、そのまま地面に座り込んでしまう。こんなことができるのは一人しかいない。最後に残って、私を睨みつけていたあの男子だけだ。


 私は石をどかし、アオダイショウの死骸を持ち上げた。野生ならそのままにしておくけど、校庭だと他の子たちが死骸で遊んでしまうかもしれない。近くにあった柔らかい土を手で掘る。校庭の端っこにいる私の様子が気になったのか、何人か児童がそばに集まってきた。しかしみんなアオダイショウの死骸を見て、悲鳴を上げる。「キモッ」だとか「きたねぇ」だとか罵って、逃げていった。


 私は無視して土を掘り続けた。私の友達は野山に住む生き物たちだけだ。人間の言うことなんか気にしない。ただのノイズ。雑音だ。そう思っていたはずなのに――。


「あ……あ、うぅ……」


 視界がぼやっとかすんで、目が開けられなかった。鳴き声を漏らさないように必死に歯を食いしばり、その場に座っているだけで精いっぱいだった。


 もういやだ。

 何もかも、何もかも。

 何がヨウセイ、幸せの象徴だ。

 何も幸福なんてもたらしてくれない――。


「あなた、優しいのね」


 不意に、横からそんな声が聞こえた。


 顔を向けると、横にいつの間にか女の子が座っていた。昼休みのとき、私が何か言いたそうだと先生に伝えてくれた子だ。彼女は素手で、代わりに土を掘ってくれた。


 十分な深さになると、彼女はアオダイショウの死骸を手に抱えた。凄惨な死骸なのに、怯えた様子はない。彼女は死骸を穴の中へ静かに横たえた。上から土をかけていく。死骸が完全に埋まると、彼女は目を閉じて、静かに黙とうを捧げた。


 ふぅ、と少女が息を吐く。


「酷いよね。なんだっけ、このヘビ。確か、アオ……」

「……ァ、アオダイショウ」ぼそりと、私は呟く。

「そう、アオダイショウ。生き物に、詳しいのね」

「そ、そんなことないけど……」

「アオダイショウ、可愛い顔してたわね」

「か、可愛い?」

「うん。目がくりくりってしてて可愛かった」


 ヘビが可愛い――同じ年齢の女子からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。

 もしかしたらこの子、生き物が好きなんじゃ……と期待してしまう。


「う、うちにも、で、出るよ……」

「え? 何が?」彼女が首を傾げる。

「う、うちの家の庭にも、このヘビが出たりするの。も、もっと大きいのも」

「庭にヘビが出たりするの!?」彼女は驚いた表情を浮かべる。

「う、うん……。アオダイショウじゃないけど、別のヘビを飼ってたり」

「ヘビを飼ってるの? すごい! 見せて見せて! 今度、遊びに行ってもいい?」


 彼女は私の手を握ってきた。柔らかくて、暖かい手だった。家族以外の人に触れるのは、随分と久しぶりだった。自分の顔が熱くなっているのが分かった。心臓がどくどくとうるさい。こちらを真っすぐに見つめてくるのが気恥ずかしい。


「あ」と彼女は少し驚いた顔を浮かべると、照れたように笑う。「そう言えば、私の名前まだ言ってなかったわね」


 彼女は自分を指さして、にっこり笑う。


「私、ことこ。安曇あずみ琴子ことこっていうの」


 その日、私は確信した。

 逸話は本当だった。

 ヨウセイは私に幸福をもたらしてくれたのだ――と。






 安曇琴子は、私と正反対だった。彼女は友人も多く、クラスの中心であり、先生からも信頼されている。彼女が私と遊んでくれることに、実感がわかなかった。からかわれているだけじゃないか。すぐに私から興味を失って、離れていってしまうんじゃないか。そんな不安が頭をよぎる。


 小学二年の夏休み、私たちは裏山の麓を散策していた。


「ねぇ。安曇ちゃんは……生き物が好きなの?」

 私が名字で呼ぶと、彼女は決まって「琴子でいいのに」と言って笑った。

「んー、あのね。私のお父さん、大学の准教授なの」

「だ、大学教授!? す、すごいエラい人なんだ……」

「大したことないわよ。それに教授じゃなくて准教授。教授の下よ。私のお父さんって生態学の研究をしてるのよ。それで家にも生物関連の本があるの。ま、難しくて私には読めないんだけれどね」

「へぇ、すごい……。なんの研究をしてるの?」

「前はコウモリの生息地域について調べてたわ。今はどうなのかな。色々と進めてるみたいだし、聞いてもちょっとよく分からないかな。いつか分かるようになれればいいんだけれど」と彼女ははにかむ。「でも私、知識ばっかであまり生き物の実物は見たことなかったのよ。それで弓ってすごく生き物のこと知ってるみたいだから。ふふ、良かったぁ。気の合う子で」

「……あ、合うかなぁ私たち?」

「えっ、合うわよ。どうしてそんなこと言うの?」と琴子は不満そうに口を尖らす。


 自分と琴子は不釣り合いだ、という思いがどうしても拭えなかった。だから、琴子がそう言ってくれて嬉しかった。気恥ずかしくて私からは言い出せなかったけれど。


「あ……そうそう、安曇ちゃん。この山ね、ヨウセイが出るって言われてるの」


 それは私にとっての幸福の象徴。あの日ヨウセイを見られたから私たちは知り合えた――とまで言うのは少し大仰だけれど、それでも私の中ではヨウセイと幸福が結びついていた。今度は一人じゃなくて二人で見たい、そう思っていた。


「……ヨウセイ、ね」


 当時の琴子はどこか寂しげな表情を浮かべていた。あれ、と少し意外に思った。んな生き物にでも目を輝かせる琴子がこんな反応をするなんて。


 結局、私たちはヨウセイの姿を見ることなく、何匹かのトカゲやヘビを捕まえただけで下山した。私の家へと戻る途中の道で、一人の男子とすれ違った。あの日アオダイショウをマムシ呼ばわりし、そして石で潰した男子だ。彼は私たちの姿を見ると初めは驚いたようだが、やがて琴子を睨みつけた。


「……安曇さ、お前なんでそんな奴と仲いいわけ?」

「そんな奴?」と琴子が首を傾げる。

「そいつがどんな奴か知ってんの?」彼は私を一瞥した。「キモい生き物ばっか好きで、マジでありえねえから。この前も、校庭で毒ヘビを毒ヘビじゃないとか変な主張しててさ。こんな奴とつるむなよな」

「……」


 あれは間違いなくマムシじゃなくてアオダイショウだった。そのことを今にもなってまだ主張してくるなんて。


「……ふぅん。そう、あれって毒ヘビだったのね」

「ああ、そうだよ」と男子。


 琴子はヘビの入ったケースを後ろ手に持つと、男子に近付いていく。男子の前まで来ると、ばっと目の前に突き出した。入っているのは、あの日と同じアオダイショウの幼蛇だ。マムシのような紋が出ている。


「わぁっ!」


 男子が声を上げて、尻餅をつく。


 琴子はケースの中に躊躇なく手を入れると、アオダイショウの首を掴んで取り出した。それを男子の顔に近付ける。


「ほうら、毒蛇よ!」

「わ、わああああぁ!」


 男子はそのまま悲鳴を上げて逃げていった。

 私と琴子は顔を見合わせて笑う。


「弓、あいつの悲鳴、聞いた? わああぁ、だって。ただのアオダイショウなのに」


 琴子は笑い過ぎて、涙を浮かべている。


「……いいの? あの子、琴子のことが好きっぽかったけど」

「あいつが? 冗談でしょう。どこにもそんな素振りなかったじゃない」


 琴子は男子に人気があるという噂を聞いていた。事実そうなんだと思う。でも、彼女は鈍感なのか、まるで男子の視線に気づいていないようだった。


「大体ね。私のこと好きだったとしても、友達の悪口を言う奴なんてお断りよ」


 琴子は私を見てウインクをした。






 私と琴子は、地元にある私立の中高一貫校に進学した。二人で科学部に入部したけれど、私たちくらい生物にコアな部員はいなかった。


「中学に入れば生物好きな人とかいるかと思ったけれど、いないものね」と琴子。

「そうだね。残念だよねぇ」


 そんなことを口では言いながら、私はその状況を少し喜んでいた。別に他の部員なんて必要ない。いても私と琴子の邪魔になるだけだ。


 中学になって行動範囲が広がり、私たちは二人で色々な場所へと行った。両親よりも、琴子と過ごした時間のほうがずっと長いだろう。二人だけで電車を乗り継いで離島へ行った。珍しい生物を求めて山へと入った。カラスヘビに足を噛まれたこともあった。山道で遭難したこともあった。展望台のベンチに並んで座り、クジラが遠くでブリーチングするのを見たりもした。


 これからもずっとこんな毎日が続けばいいし、そして実際に続いていくのだろうと思ってた。確信していた。だって私にはヨウセイが付いているのだから。


 そう、愚かにも勘違いしてしまった。






「1年の榎本って言います! よろしくお願いしまーっす! 好きな生き物はハコネサンショウウオっすね。あの正面から見たときの飛び出た目が超カワイイのでっ!」


 高校二年の春、榎本夏木という後輩ができた。ショートカットで、小麦色の肌をした健康的な少女だ。陸上部との兼部らしい。


 彼女は私と琴子の話にかなり食いついてくるほどディープな生物好きで、フィールドワークにも同行した。爬虫類両生類問わず、触るのにも抵抗はないようだ。


「お、安曇先輩! カエルいますよ。トノサマっすかね?」

「これ模様的にダルマじゃないかしら?」


 琴子と夏木は気が合うのか、すぐに打ち解けた。二人は野外へ出かけたときも楽しそうに会話をしていた。榎本は私にも話しかけてくれるのだけれど、琴子と話しているときと比べるとぎこちない。とっつきにくい奴だと思われているのかもしれない。


 琴子と榎本はどんどん距離を縮めていった。私が十年近くかけて築いてきた琴子との関係性に、どんどん迫って来る。授業の関係もあり、私は毎日部活へは行けなくなっていた。私と琴子が会える頻度は少なくなり、逆に琴子と榎本が会う頻度は増えていく。でも、それでもまだ大丈夫だと思っていた。琴子と私は小学生からの親友で、そこには他人が入る余地などないのだと、どこかで期待してたのだ。




 梅雨の時期、放課後。


 私は部室の扉を開けて中へと入ろうとしたけど、躊躇してしまった。中から、琴子と榎本の会話が聞こえる。榎本が何か喋り、琴子がそれに笑っている。とても楽しそうな笑い声だ。この十年で、琴子のこんな笑い声を聞いたことがあっただろうか。


 ノブに手をかけたけれど、私はそれを回す勇気がなかった。私が入ることで、二人の関係を邪魔してしまうのではないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。私はもしかして、二人の邪魔者なのではないだろうか――。その日は部室へと入れず、学校を後にした。こんな惨めな気持ちで帰るのは、小学校低学年のとき以来だった。


 自分の中に、どす黒い思いがうずまいていると分かった。

 嫉妬という名の、醜い感情。

 琴子は私だけと仲良くしてほしい。

 琴子にあの女と仲良くしてほしくない。

 醜い、醜い、醜い――。

 そう分かっていながらも、感情がとめどなく、心の奥底から溢れてくる。


 そのとき、とある光景が脳裏をよぎった。

 私の幸せの象徴――空を飛んでいたヨウセイ。


 もう一度ヨウセイを見ることができれば、あの日と同じように私は幸せを手に入れることができるんじゃないか。琴子は再び私だけを見てくれるんじゃないか。


 幸せが訪れる――それがヨウセイの珍しさに起因する科学的根拠のない逸話だということは分かっている。でも私はそれに縋るしかなかった。それしか手はなかった。


 三日三晩、裏山を捜索してもヨウセイは見つけられなかった。

 やっぱりヨウセイを見つけることなんて無理なのか。

 そもそもあの時だってただの見間違いだったのかも――。




 そして私は裏庭の池で、溺れかけているヨウセイを見つけた。

 手に入れた。

 私の幸せの象徴を。

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