7話 逃走と走性

「……っ!」


 腕に力をこめて縄をほどこうとしたが、固く結ばれていてびくともしない。皮膚に縄が食い込んで赤紫色に鬱血する。それでも何度も、何度でも試す。

 

 このままでは夏木が死ぬ。どうしてあんなに夏木を恨んでいるのかはさっぱり分からないけれど、弓は本気だ。夏木は高校に徒歩通学しており、この家に来るまで恐らく三十分ほどかかる。あと三十分で抜け出さなければ、最悪の事態になる。


 窓は開いている。ここから大声で叫んでみれば、近所に届くだろうか。いや、弓がやって来て再びスタンガンで気絶させられたらそこで詰みだ。


 弓に気づかれずここを抜け出すしかない。


 私は何か利用できるものがないかと部屋を見回した。と、そこで端っこに置かれている幾つものケージや水槽に気づく。その中に一つ壊れている水槽があった。


「……」


 私はゆっくりと立ち上がる。足先と踵だけを交互に動かし、カニのように横歩きで移動した。水槽の前に座り、切れたガラスに両腕を縛っている縄を当て、前後にこする。ぎこぎこ、ぎこぎこと。縄は太くて全然擦り減らない。それでも根気強く、素早く、ぎこぎこと削っていく。


 縄が切れたのは、体感で十分近く経ってからだった。クーラーもついていない部屋だったため、全身汗にまみれて、ブラウスはべっとりと肌に張り付いていた。


「よし」


 腕が自由になればこっちのものだ。近くのスチールラックから大型のハサミを取り出して足の縄を切る。これで完全に自由になった。腕を後ろ手で縛られていなかったのが大きい。それはそうだ。弓はただの女子高生で、監禁のプロでもなんでもないのだから。人が逃げだせないよう縛りあげるのは、それなりに手腕が問われる。


 私は扉を開け、慎重に廊下へと出た。さっき階段を降りる音がしたから、弓は2階にいないはずだ。廊下をするように歩き、階段のところまできた。身をかがめて下を見てみる。1階、階段のすぐ近くに弓が座っていた。スタンガンをいじっている。ここを降りていけば気づかれてしまうだろう。スタンガンがある以上、強行突破も無理そうだ。


 私は監禁されていた部屋に戻った。ここが物置だったのはついている。さすがに武器になるようなものはないけれど脱出するだけなら十分できそうだ。


 見つけたのは、私の手足を縛っていたのと同じ縄。長さも十分にある。私はそれを近くにあった棚にぐるりと2周させ、きつく結んだ。引っ張っても棚は重く、びくともしない。縄を窓から蔵の外へと出す。縄の先端が地面についた。蔵は高く、窓から顔を出すと地面と4、5メートル近く離れている。


 私は軍手をはめた。縄を掴み、窓から身を乗り出す。縄は強度もあって、結び付けた棚は動かないし、蔵の壁は厚く、1階の弓に音を聞かれる可能性は少ない。


 さあ、降りようと決意したところで私はそれに気づいた。


 床に放置されている、弓が投げつけたヨウセイ。

 血だまりに沈んでいるが、腹部がわずかに上下している。


「……」


 私はヨウセイを拾った。ヨウセイはか弱く、傷ついたものはすぐに死んでしまうケースが多いらしい。恐らくこのヨウセイはもう助からない。だがそれでも先の1匹みたいに、弓に踏み潰されてぺしゃんこになんかさせたくない。せめて死ぬときまでは一緒にいてあげよう、そう思った。


「……ごめんなさい」


 近くにあったティッシュでヨウセイの身体を簡単に拭く。ブラウスの胸ポケットに入れると、「きぃ」と弱々しい声でヨウセイが鳴いた。


 私は窓から身を乗り出し、軍手をした手で縄に捕まる。縄に捕まり、呼吸を止め、地面へと向けて一気に滑り落ちる。


「……っつ」


 太ももの間に挟んだ縄が、摩擦により熱くなる。思ったよりも勢いよく地面にぶつかった。右足を捻ってしまい激痛が走る。太ももを見ると、真っ赤に擦りむけて血が滲んでいる。それでも痛みに耐えて、走り出す。


 陽は沈みかけ、外はもう薄暗くなっている。私は電気の点いてない真っ暗な母屋の横を通り、門を目指した。靴がないため足の裏に小石が刺さって痛い。


 脱出して、どうすればいいのだろう。

 いや、頭では分かっている。

 近くの家で電話を借りて警察に通報。

 それが最善なのだろう。

 でも――。


 頭の中に、今まで弓と過ごした光景が思い浮かぶ。私たちは二人でたくさんのことをした。二人だけで電車を乗り継ぎ、離島へ行った。珍しい生物を求め、山へと入った。ヘビに噛まれたこともあった。山道で遭難したこともあった。展望台のベンチに並んで座り、クジラが遠くでブリーチングするのを見たこともあった。


 警察に通報すれば、弓は私に対する監禁罪で逮捕されるだろう。でも正直、私自身のことなんてどうでもいい。元の優しい弓に戻ってくれれば、私は今日のことなんて全て水に流していいと思ってる。


 ヨウセイを残虐に殺したことは罪だ。だけれど本当に辛いのは弓のはずだから。生き物を残虐に殺す、それは弓が最も嫌っていること。今の弓は、なんらかの理由で錯乱しているとしか思えない。


 なんとか元の弓に戻せる方法があれば――。

 そうすれば私たちはまた二人で、手を取って笑いあうことができる。


 でも今はやはり、夏木の安全を優先すべきだ。

 通報するしかない。

 石畳を通ると、正面に大きな数寄屋門が見えてきた。

 正面には明かりのついた民家。

 あそこに駆け込んで助けを――と思ったところで私は動きを止めた。


 門の外には屋根付きの車庫があり、2台の車が停まっていた。1台は弓のお父さんの社用車だ。そしてもう1台は家庭用の車。しかし弓の家は共働きで、お母さんは日中この車で職場へと通っている。


 この家に来たとき、数寄屋門前の車庫には既に2台の車が停まっていた。それはつまり弓の両親は2人とも出社していなかったということ。


 しかし――。


 背後にある母屋は電気がついておらず真っ暗だ。明かりが灯っているのはさらに後ろにある土蔵だけ。もう陽は沈みかけ、道路には街灯が点いている時間なのに。


 唐突に、弓の言葉が脳内に浮かぶ。


 ――おばあさんは?

 ――まだ寝てるよ。


 まだ寝ているのだろうか?

 こんな遅い時間帯になっても?

 両親も家にいるのに電気を点けない?


「……」


 私は母屋へと向かって歩き出した。

 何をやっているのだろう。

 早くここから逃げるべきだ。

 頭ではそう理解していながらも、足は止まらない。


「きぃ」

 か細い声で、胸ポケットのヨウセイが鳴く。


 私は縁側から家へと上がり込んだ。


 心臓が早鐘を打っている。

 耳元で自分の心音がうるさく響く。

 なぜ、こんな利に合わない行動をしているのだろう。


 生物が外界からの刺激に応答して移動する現象を走性という。例を挙げるならば、光に向かっていく蛾。水流に向かって泳ぐ魚。性フェロモンや集合フェロモンも化学走性の一つだ。近づくものを正の走性、遠ざかる物を負の走性という。


 だとすれば私は今、何に対して惹かれているのだろう。

 敢えてあげるとするならば恐怖だろうか。

 怖いもの見たさ。だとすれば正の恐怖走性か。


 窓から入るわずかな明かりを頼りに、暗い家の中を歩き回る。

 他人の家の香り。昔ながらの家のどこか古臭い香りが漂う。

 それに交じってどこからか別の臭いが漂ってきた。

 鼻を突くような刺激臭――インドールと硫化水素。


 布団が二組敷かれている寝室を通る。布団の上には大きい真っ黒な染みができていた。染みの痕は畳へと伸び、引きずられるように奥の部屋へと続いている。


 染みは廊下から脱衣所へ。

 脱衣所の扉に手をかける。

 指がぶるぶると震えていて、上手くつかめない。

 今ならまだ間に合う。

 何も見ずに逃げ出せる。

 それでも私の足は、一向に逃げ出してくれない。

 扉を開くと同時に、鼻が捻じ曲がるほどの腐敗臭。

 涙が溢れてくる。

 えづきそうになり、私は口元を抑えた。

 扉近くにある電気のスイッチを探り、点ける。

 暖色の光が風呂場を照らした。

 

 風呂場には真っ黒な液体が広がっていた。

 その中に3つの死体が横たわっている。

 全員、裸だ。


 二人は女性で、一人は男性だとかろうじて分かる。肌色とは程遠い暗緑色の肌をしている。身体はぶくぶくと膨れて大きくなっており、水泡ができていた。男性の顔はこちらを向いていた。真ん中で縦にぱっくりと割れ、赤黒い中身が露出している。


「うう、うえええぇえぇっ」


 私はその場に膝をついて、げぇげぇと吐き出した。たっぷり黄色い吐瀉物を出した後に、再び吐き気がやってきて、また吐いた。喉や口が焼けるほど酸っぱい。


 たっぷりと吐いた後、私は口を拭い風呂場を後にした。

 床に残っている血の痕を、逆方向に進んでいく。

 涙がぼろぼろと止まらず、むせびながら廊下を歩く。

 

 喪失感がひどかった。

 自分が何に対して惹かれていたのか分かった。

 恐怖なんかじゃない。それは信頼だ。私は弓を信じたかった。彼女はヨウセイを殺しているけれど、人にまでは手をかけていないと。まだ戻ることができるのだと信じたかった。きっと彼女の祖母も両親も具合が悪くて寝ていて、漂う腐敗臭の原因は生ごみなのだと、そう信じたかった。それを確認するために私はやってきた。


 でも、もうおしまい。

 弓の言葉を思い出す。

 ――もうとっくに取り返しなんてつかないの。

 そう、私たちは――。


 ぎぃっ、と前から床の軋む音。

 顔を上げる。

 廊下の奥に黒いシルエット。暗闇の中でスタンガンがバチバチと光る。


「……弓」

「琴子……」


 もう私たちは、前みたいには戻れない。

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