6話 榎本夏木

『あれ、アズミ先輩? なんか声が遠くないっすか?』

「夏木――」私が喋りかける前に、弓が私の口を手で覆った。「むぐ……」


 両手両足を動かせない私はなすすべもない。首を横に振ってなんとかふりほどこうとするが、弓は力強く、がっちりと掴んで離してくれない。


『アズミ先輩? 声聞こえないんですけど今って大丈夫っすか?』

「……」

『否定しないってことは…………大丈夫ってことっすかね?』

「ふぇんふぇんらいひょうぶびゃまい!」

 ぜんぜんだいじょうぶじゃない!

 どうしてそうなるの!


 こちらが何も喋らないのに、陽気な後輩はべらべらと捲し立てる。


『今週末のフィールドワークについてなんすけど。やっぱ東公園のほう行ってみません? 噂なんですけど、あっちってナミゲンがよく出るらしいんすよ。捕まえたくないっすか? ぼちぼちゲンジも見ごろっぽいですしどうですか?』


 弓は目を大きく開き、スマホを凝視している。


『そうそう、あの、入月先輩ってどうだったんすか? 元気してました? 今週末は入月先輩も行けそうっすかね……? 先輩? せんぱーい? 聞こえてます? ちょっと、アズミせんぱ……』


 弓はスマホの送話口を指で抑え、こちらの声をシャットした。ようやく手を離してくれたが、私はゲホゲホと咳きこんでしまう。


「……どういうこと、琴子?」

「げほっ、どういうことって……」

「今週末、あの子とフィールドワークに行くつもりだったの? そんな話、私聞いてなかった。私を放って二人で行くつもりだったのかな……私を仲間外れにして」

「違う! そんなつもりないわよ。弓宛てにラインでメッセージも送ったし、電話もかけたの。でも出てくれなかったから――」


 夏木と私は、今週末フィールドワークに行く予定を立てていた。それについて話し合ったのはつい昨日のことだ。弓にもメッセージを送ったが既読はつかなかった。今日はそれについて話し合う目的もあってここにきたのだ。仲間外れになんてするつもりはないし、なぜ弓がそんなことを考えるのかも分からない。


 弓は首を横に振った。


「……いいよ、琴子。私が間違ってた」

「……?」

「そう、福を呼び込むだけじゃ駄目なのね。鬼はちゃんと払わなきゃ。不幸の元凶を放置したままじゃいつまで経っても幸せになんかなれない。そう、そうよね」

「何言って――むぐっ」


 再び、弓が私の口を抑えてきた。

 彼女は送話口から指を離す。


『ちょっと先輩、聞こえてますか? なんかすっごい電波が悪いのか声が届かないんですけど。何ごそごそやってるんすか? せんぱーい? 切っていいすか?』


 ごほ、ごほっと弓が何度か咳き込んだ。


「……ごめん。ちょっと通信が悪かったのよ」


 弓はいつもより低い声で通話した。喋り方と口調を少し変えている。具体的に言えば、私に似ている喋り方だ。


『あ、そうなんすか? 声色いつもと少し違う気がしますけど』

「夏木、今どこにいる?」

『私っすか? まだ部室っすけど』

「私、弓の家にいるのよ。夏木とも一緒に話し合いたくて。今から来れない?」

「!?」


 夏木を今からここへ呼ぶ?

 弓、一体何を考えてるの――。


『入月先輩の家っすか?』

「そう、新歓で来たよね?」

『あの馬鹿でかい家っすよね? 今からですか。まぁ、大丈夫っすけど……』

「そう、待ってるわ。それじゃあお願いね」

『あ、アズミせんぱ――』


 弓は通話を切った。

 彼女は静かに息を吸い込むと、

「ぅううああっ!」

 大声で叫び、私のスマホを勢いよく床に叩き付けた。液晶が派手に割れ、部品が飛び散る。弓は顔を真っ赤にし、肩で息をしている。


「弓、どういうこと! なんで夏木をここに――」

「ふふ、分かってるくせに」


 弓はにやりと、不敵に笑う。


「榎本夏木を殺す」

「……え?」

「狂いだしたのはあの女が来てからだもんね。琴子がおかしくなったのも同じくらい。そう、そうだよ。元凶である榎本夏木を殺さないでいて何が幸福なの。もっと早く、ヨウセイを呼び込む前に私はやるべきだった。殺るべきだった!」

「な、なんでよ! 夏木は関係ないじゃない!? どういうことなの!?」

「庇い立てするの? やっぱりおかしいよ、琴子。あの女を殺せばもとに戻ってくれるのかな。前の琴子みたいにさ。そう、そうだよね。きっとそう! そう!!! あははははははははははははははは!」


 弓は大きな声で高笑いした。口先だけではなく、本当に夏木を殺すつもりだ。


「駄目、弓! あなたがやろうとしているのは、殺人なのよ!? そんなことしたらあなた、取り返しがつかなくなるわ!」

「取り返しがつかなくなる? ふふ、何言ってるの琴子」

 

 弓が笑う。

 それは今までの狂気に染まったものとは違い、どこか寂しげな笑みだった。



 弓は床に置いた霧吹きを手にした。そしてついさっき放り投げたヨウセイをまじまじと見つめる。ヨウセイは血だまりの中で仰向けになっている。


「頭を打ってるみたい。虫の息かぁ。駄目、これじゃあ警戒フェロモンが出ちゃってるかも。新しいヨウセイを呼び寄せなきゃ……」


 弓はヨウセイをそのまま放置して、部屋の出口へと向かった。


「弓! 今すぐ縄をほどいて!」

「大丈夫、ほどくから。そのときは全部終わった後だろうけど」

「……っ! 弓! 弓ってば!」


 何度呼びかけても、弓は私を振り向かない。

 そのまま部屋から出て行った。

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