5話 フェロモン

「………………ん」


 窓から入る夕陽がやけに眩しくて目を開けた。私はひんやりした木目の床に、腹ばいになっていた。頭が、ぼーっとしている。自分がどこにいるのか分からないまま起き上がろうとするも、足、腕ともに動かせない。顔を向けると、私の両手、両足は縄で結ばれていた。


「なっ……何よ、これ」

 

 ほどこうとしてもがっちり結ばれている。力任せに切るのはできそうにもない。おまけに、腰のあたりが焼けるように痛く、身体全体がだるい。


 私はあたりを見回す。私がいるのは四畳半ほどの空間。空っぽの水槽や袋詰めのウッドチップ、流木などが置かれている物置のような場所だ。この場所は見覚えがある。土蔵の二階だ。

 

 段々と自分の置かれている状況を思い出してきた。私はスタンガンで失神させられ、彼女に手足を縛られた。その後、弓によって二階に運ばれたということだろうか。それほど時間は経っていなさそうだが――。


 私はダンゴムシのように身体を丸めた。幸い、縛られているのは手首だけだ。肘を地面に突き、床から起き上がる。そのまま体育座りの姿勢になった。


 ぎし、と足音が聞こえた。

 扉が開き、弓が姿を現した。


「目が覚めた、琴子?」

「弓……どういうことなの。今すぐこれをほどいて」

「ごめんね、縛ったりして。本当はこんなことしたくないんだけど、でも、仕方ないの。琴子は様子がおかしいから。だから治るまで拘束させてもらったの」


 様子がおかしいのは弓のほうよ――そんなこと言っても聞き入れてもらえないだろう。さらにおかしいと認定されるだけだ。私は黙って弓を見つめ返す。


「でもね琴子、大丈夫。私が今すぐヨウセイをいっぱいいっぱい呼んで、幸せを呼び込んであげるからね。琴子を元に戻してあげるから」


 弓の右手には霧吹きが握られていた。中は薄茶色の透明な液体で満たされている。彼女は土蔵の窓枠から身体を乗り出すと、霧吹きを外に向かって吹きはじめた。


「しゅっしゅっ、しゅっしゅっ」


 弓は楽しそうに液体を噴霧すると、すぐに窓枠の横に隠れた。

 何をしているのだろう、という疑問はすぐに解消された。

 まもなく扉の外にそれは飛んできた。


 現れたのはゲツガコウヨウセイ――薄緑色の体色をしたヨウセイだ。私が弓の家の前で見かけたのと同じ種。そして弓が捕獲し、殺した種でもある。


 弓は壁際に立て掛けてあった虫取り網を手に取った。市販のものではなく、彼女が扱いやすいように自作したものだ。ヨウセイが窓枠に乗り、蔵の中を恐る恐るといった様子で伺う。弓はヨウセイ目がけ、網を一気に振り下ろした。


 ヨウセイはそこで異変に気付いたが、もう遅い。口径の大きな網はすっぽりとヨウセイを包んでしまった。彼女は宙で網を翻し、ヨウセイを包み込んだ。


「きぃ、きぃ、きいーっ」

 と甲高い声でヨウセイが鳴く。


「ね、簡単でしょう。これがあれば私ヨウセイをいっぱい捕まえられるの」

 弓は陶然とした様子で、網の中に捕らわれたヨウセイを眺めた。


 一方の私は、茫然とせずにはいられなかった。

 

 ヨウセイは人間に目撃されることはおろか、捕まることは滅多にない。私は弓が、本当に奇跡のような偶然でヨウセイを見つけて捕まえたのだと思っていた。だが彼女は私の目の前で、ヨウセイの誘因と捕獲をいとも簡単にやってのけた。


 これは一体――。


「まさか……」


 薄茶色の溶液。散布。やって来たヨウセイ。

 私の中でそれらが繋がる――。


「……集合フェロモン!」

「そう、さすが琴子!」


 弓は満面の笑みを浮かべた。

 

 フェロモン――微量ながら同一種の個体に作用し、特定の行動や反応を引き起こす化学物質のことだ。異性を誘引する性フェロモン、外敵の存在を仲間に知らせる警報フェロモンなどがある。多くの昆虫、また両生類や哺乳類もフェロモンを利用することが報告されている。(※1)


 恐らく、霧吹きの中身はヨウセイの抽出液。集合フェロモン、あるいは性フェロモンが含まれているのだろう。弓はそれを噴霧することでヨウセイを集めたのだ。


 だが、それには看過できない問題がある――。


「……確かヨウセイの多くは警戒フェロモンを放出するって聞いたことがあるわ。拡散性が強く、すぐに仲間へと連絡が行き届くとも。それがヨウセイ捕獲の難しさの一因だって。でも、集合フェロモンや性フェロモンを放出しているなんて聞いたことがない!」


 私がチェックしていないだけで、既にフェロモンが単離され、構造決定がなされたのだろうか。ヨウセイに関する論文は全て読み飛ばしていた私だ。その可能性は十分にある。


 そんな私の様子を見て、弓はくすくすと笑う。


「違うよ、琴子。これはね、私が発見したの」

「……え?」

「セレンディ・ピティ――サッカリンやペニシリンのようにまったくの偶然による発見だけどね。私が、抽出という形でだけれどヨウセイの集合フェロモンを発見した」


 彼女はヨウセイの細い腰回りを掴み、網から取り出した。ヨウセイは甲高い声で泣き喚き、羽や足をばたつかせている。


「四日前、いや今日って水曜日だったんだっけ? それじゃあ一週間前ね。裏庭のビオトープでヨウセイが溺れていたのよ。裏山の方から迷い込んできたのかな。かなり衰弱してたみたい。私、それをたも網ですくったの」

「……」

「初めは写真とか動画とか撮って、すぐに離すつもりだった。でもほら、ヨウセイの肌って綺麗でしょ? 足も腕も細くて綺麗でしょ? だから私ね、捕まえたヨウセイの足を鉛筆削りの中に突っ込んで、そしてハンドルを――」


 弓が右手で、ヨウセイの小さな足首を掴む。

 さぁっと、血の気が引くのが分かった。


「弓、止め――」

「こう、ぐるぐるって回したのよ」


 弓はそのままヨウセイの右足を一回転させた。

 ぱきっ、という小さな音。

「きいぃーーーーーーいぃーーーーーーーーっ」

 というヨウセイの苦痛に満ちた悲鳴。


「こう、ぐるって」

 既に折れた足を、彼女はさらに1回転させる。

「ぐるって、ぐるって、ぐるって」

 一回転、一回転、一回転――。


 その度にヨウセイは顔を大きくのけぞらせ、悲鳴をあげた。ヨウセイの小さな口周りは真っ赤に染まっていた。歯を食いしばりすぎて皮膚が破れているのだ。


「うふ、ふふふふ」


 弓は無邪気に笑う。

 好きな玩具で遊んでいる子供のように。


「どうやって集合フェロモンを抽出したか。簡単な話、琴子。私はね、ヨウセイを生きたまますり潰した液を、エタノール・エーテル混液を溶媒にして抽出したの」

「生きたまま……すり潰す?」

「そう。たったそれだけ。分泌腺がどこか分かればよかったんだけどね。面倒だから内臓も脳も全部ごちゃ混ぜにしてすりおろした。ヨウセイは骨格が軟骨だから、すり潰すのもそこまで大変じゃなかったよ」

「あ、あなた……」

「きっとヨウセイの放出する集合フェロモンは死後、体内で急速に分解されるの。酸化分解されやすいのかも。一方で警戒フェロモンの放出は促進されて、ヨウセイの死骸が同種に対するアラームとして機能する。だからそれを防ぐために生きたまますり潰した。あとは酵素を停止させ、酸化防止剤を添加したらね、これができた」


 弓は足元に置いた霧吹きを見て、恍惚とした表情を浮かべた。

 痛みで痙攣しているヨウセイを持ちながら、彼女は近づいてくる。

 ヨウセイの右足はもはや薄皮一枚で繋がっているだけだった。

 私の顔の前に、苦痛に呻くヨウセイを突き出す。


「こいつもすり潰しちゃおうね。そうすればもっと沢山のヨウセイを――」


 と、そのとき。ぶぶぶぶぶぶ、とバイブ音が鳴った。発信源は私のスカートの内ポケットだ。バイブレーションにしていたスマホが振動している。誰かから電話がかかってきたのだ。

 

 弓はぴたりと動きを止める。彼女はヨウセイを手から離した。ヨウセイは頭から床に落下し、「きぃ」という悲鳴を上げた。


 弓が体育座りになっている私に覆いかぶさってきた。スカートの内ポケットに手を突っ込み、まさぐってきた。


「や、やめて、弓……。か、関係ない人、きっと」

「ねぇ、誰から?」

「お、お父さんかも……」

「じゃあ、見せれるよね? ねぇ?」

 

 私の抵抗むなしく、弓はスマホを取り出した。

 彼女は画面を見て、顔を顰める。

 表示されていた名前は生物部の後輩――榎本えのもと夏木なつき


 弓が画面を右へとフリックして、電話に出る。


『あ、もしもし。アズミ先輩っすか? 私っすけど~』

 電話口から明るい声が響く。


「……えのもと、なつき」

 弓は顔を歪めていた。







注釈

※1 フェロモンは主に昆虫を対象として研究がなされてきた分野であり、哺乳類であるヨウセイに対してこの用語をそのままの定義で使うことは不適切だという議論もある。

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