3話 入月弓

 入月いりつきゆみの自宅は高校から自転車で十五分ほどのところにある。後ろには大きな山が連なっており、秋は紅葉で綺麗に染まって見ごたえがあるのだけれど、この時期はセミの騒音で鬱陶しい。


 どんと構えられた大きな数寄屋門。その前には車庫や自転車置き場があり、私は車の横に自転車を停めた。


「何度来ても大きな家よね……」


 門の奥には石畳が続き、和風庭園が広がっている。マツが生えそろい、小さな枯山水や、錦鯉の泳ぐ池もある。弓とは小学校からの付き合いだが、家に来るたびその大きさに驚かされる。昭和よりも前、弓の家はこのあたり一帯の大地主だったらしい。今は管理の問題でほとんどの土地を売り飛ばしてしまい、古くからのこの家を残すだけだ。これだけ広いのにお手伝いさんは雇っていない。両親と弓、そして母方の祖父母の四人でここに暮らしている。


 私は門の横にあるインターフォンを押そうとした。

 と、そこで視界の端を何かが掠めた。

 羽の生えた、白い生き物。

 蝶か何かかと思って横を見ると、そこを飛んでいたのは――ヨウセイだった。


「……っ」


 思わず、息を止めてしまう。


 薄緑色の身体に細い手足。体長15センチはほどと比較的大きい。背中から生えた四枚の羽をはばたかせふわりと舞っている。ヨウセイは門を飛び越え、入月家の庭へと入っていった。


 突然の事態に、私は呆けてしまった。ヨウセイには詳しくないので同定はできないが、大きさなどからしてリンモクヨウセイ科の一種ではないか。人里に近い山間部、里山などに生息している種だ。こんな真昼間に、民家の近くで姿を現すなんて。動画を撮っていれば全国ニュースになっていたくらい珍しい出来事だ。


 私は眉間をつまんだ。自分の見た光景が信じられない。今日は30度を超える気温だし、夏の暑さが見せた幻覚なのかもしれない。


 動悸が治まらずその場で立ち尽くしていると、数寄屋門が内側から開いた。


 立っていたのは、丸い眼鏡を掛けたショートカットの少女。グレーのショートパンツに、トカゲの絵が印刷された丸首Tシャツを着ている。頭一つ分小さい彼女は私を見上げて、ぱぁっと顔を明るくする。


「琴子! やっぱ琴子だ!」てくてくと、弓が近づいてくる。「どうしたの急にやってきて? 連絡くらいくれればよかったのに」

「電話もしたしラインも送ったけど、出てくれなかったでしょう?」

「え、そうなの? あ……スマホの電池切れてた。あははははは」


 ポケットからスマホを取り出して、彼女は笑った。私もつられて笑ってしまう。心配していたが元気そうでよかった。先週と比べて少し頬がそげているような気がするけれど。夏バテだろうか。


「それにしても琴子……」弓は私の身体を見回した。「どうして制服を着てるの?」

「……? どうしてって……それは学校があったからよ」

「へぇ。補習かなにかかな? 休日なのに大変だね」

「……弓。今日が何曜だと思ってるの?」

「日曜でしょ?」

「水曜よ」


 私の言葉を聞いて弓はしばしぽかんとしていた。しかし何かに得心がいったのか、彼女はくすくすと笑い始める。


「あはははは。そっかそっか。今日って水曜だったんだ。早いね。びっくりしちゃった。時間間隔が狂っちゃうんだもん。そっか、早いなぁ」

「……?」


 弓の様子に、少し違和感を覚える。弓はしばらく笑い続けた後、いきなりよろめいて地面に倒れそうになる。私は駆けよって彼女を支えた。


「弓、大丈夫? 疲れてるの?」

「……大丈夫。私は大丈夫だよ」弓はにこりと笑いかける。「折角だしお茶でも飲んでってよ。ちょっと琴子に見せたいものがあるんだよね。さ、入って入って!」


 弓は一人で立つと、足を弾ませながら家へと向かう。いつも物静かな弓にしては珍しいテンションだ。弓の様子が少しおかしいことに不安を覚えたけれど、私はあとをついていく。


 視界の端を、また何かがよぎった気がした。ヨウセイかと思ったけれど、そこを飛んでいたのはただのアゲハチョウだった。


 思えばこのとき、私はここで引き返すべきだった。

 そうすればあんな悲劇に直面しなくてすんだのだから。

 ヨウセイが私にとって不幸の象徴であることなんて、嫌になるほど知ってたのに。






 私はリビングへ通された。開いた網戸からセミの喧騒が聞こえてくる。時折、風が吹いて軒先に吊るされた風鈴がちりんと鳴った。クーラーはついていないが十分に涼しかった。


 コップに注がれた麦茶を弓から受け取る。炎天下で失われた水分を補うため、一気に飲み干す。麦茶は作られて時間が経っているのか、少し酸味を感じた。


「ねえ、琴子。面白いもの手に入れたんだけど、見てみない?」

「面白いもの?」

「そ。琴子もきっと喜んでくれる。裏のほうにあるの」


 弓は弾んだ足取りでリビングから出て行き、私もあとを追った。庭に面した縁側を通り、家の奥へと進む。家の中は静かだった。私たちの足音、床が軋む音、セミの鳴き声、遠くで風鈴が鳴る。


「そういえば、おばあさんは?」

 私が尋ねると、前を行く弓が振り返り微笑む。

「おばあちゃんはね、まだ寝てるの」

「そうなの。こんないい天気で涼しかったらお昼寝日和よね」


 私たちはサンダルに履き替え、母屋の裏にある土蔵へと向かった。土蔵は壁に漆喰が塗られていて、小さな一軒家くらいの大きさだ。江戸後期のころに建てられたらしいが、母屋と同じくリフォームされ、壁、内装ともに一新されている。

 

 蔵は弓専用の部屋として使われている。理由の一つが動物だ。弓はヘビ、トカゲなどの爬虫類を中心に多くの動物を飼っている。ヘビは飼育するうえでなかなか厄介で、ケースのわずかな隙間に潜り込んで脱出してしまう。母屋でヘビを飼っていたころにもよく抜け出し、怒られていたらしい。それを見かねた今は亡き弓の祖父が、蔵を丸々あげて、隔離するよう要請したのだ。蔵にはクーラーや冷蔵庫もついており、不自由はない。


 蔵の厚い扉を開くと左右に二つの棚があり、ガラス製やプラスチック製のケースがずらりと並んでいる。蔵の中には、独特のケモノ臭さが立ち込めている。飼育されている動物の中に、外来種はほとんどいない。弓はペットショップで動物を買うのではなく、野外で捕まえてくるからだ。裏山には多くの動植物が生息しており、そこで見つけた爬虫類を捕獲して持ち帰ってくるのだ。


「見せたいものって? また何か変な動物でも見つけてきたの?」

「うん。多分すっごい驚くよ」


 そう言うと、弓は奥の階段から二階へと昇って行く。


 その間、私はケースに近寄り動物たちを眺めていることにした。


 弓は小学生のころから、爬虫類や両生類が大好きな珍しい女の子だった。私が本や雑誌などで知識を仕入れるタイプだとしたら、彼女は実際にフィールドで知識を得る野生児系のタイプだ。文献だけでは得られない多くの情報を知っている。


 この中でも彼女が特に気に入っているのが、シロマダラというヘビだ。私たちが中学1年生のときに裏山で見つけたものだ。幻の蛇などと囃し立てられることもあり、滅多に遭遇できない。頻繁にフィールドワークに出かけている彼女だけど、この1匹以外には遭遇したことがないそうだ。シロマダラの飼育は難しい。エサは基本的に小型の爬虫類や両性類しか食べないため、冷凍マウスが使えないのだ。ケースを覗き込むと、チップの敷かれた上にシロマダラがとぐろを巻いて横たわっている。ピクリとも動かず、まるで眠っているかのようだ。私たちが初めて見つけたときより大きくなったな――などと感慨にふけっているところで、私は気づく。


 シロマダラの瞳は灰色に濁り、光がない。その瞳にコバエが止まった。シロマダラは瞬きもしない。よく見ると多くのコバエがケース内を飛び回っている。私はケージの扉を開けた。シロマダラに触る。まったく動かない。頭部を持ち上げてみるも反応なし。完全に死んでいた。


「……」


 ショックだった。自分が直接飼っているわけではないけれど、弓と一緒に見つけてから長い間つきあってきたのだ。

 

 次いで湧き上がって来たのは、疑問だった。このコバエのたかり様、さっき死んだわけではないだろう。少なくとも数日は経っている。それならばなぜ弓はシロマダラが死んだことに気づかないのか? 別に毎日餌をあげるわけではないけれど、彼女のことだから細かくチェックしているはず。それなのにどうして放置を――。


「お待たせ、琴子ーっ!」


 弓が階段を下りてきた。風呂敷のかかった籠のようなものを手に持っている。


「ふふ、きっとびっくりするよ。琴子なら喜んでくれると思うな!」

「……弓」

「ん、どうしたの?」

 私はゆっくりと、ケージの中を指さした。

「このシロマダラ、死んでるわ……」

 私がそれを指摘すると、弓はくすくすと笑った。

「あ、そうそう。3日くらい前に死んじゃったんだよね」

「……あなた、知ってたの?」

「うん。最近お世話してなかったからね」

「……埋めてあげないの?」

「うーん。面倒くさくて」

「めんどうくさ……」

「大丈夫。さすがに腐敗してハエがたかるまえに、まとめて捨てるから」


 


 私ははっとして、他のケースを見る。横のケージに入っているのはアオカナヘビ。奄美諸島などに生息する固有種で、綺麗な緑色をしている。ケージには雄一匹、雌二匹が入っているはずだが――三匹とも地面にべったりと倒れ、動かない。


 他のケースも見ていく。シロマダラよりもずっと以前から飼っている爬虫類も多くいる。それらも管理されておらず、エサも水もなくなり、放置されて死に絶えていた。これらをまとめて処理すると弓は言っているのだ。


「弓、どうしてこんなことを……」

「だってさ琴子、もういいのそいつらは。私はもっと素敵なものを手に入れたから」


 弓が風呂敷を落とす。

 手元にはアンティーク調の鳥かご。

 その中央に一匹のヨウセイが跪いていた。


 体長十センチほど。深い緑色をした二つの両目。小さな口に細くとがった顎。体色は全体的にほのかな緑。ほっそりとして、一部の贅肉もない肢体。

 

 古来より多くの人間を魅了してきた幻想的な生物。

 ――それが、今は見るも無残な姿になっていた。


 ヨウセイは籠の底にぺたりとへたり込んでおり、その両足はあらぬ方向を向いている。膝からは骨が飛び出ており、どす黒く固まった血液が付着していた。背から生えた羽は全て千切られている。ヨウセイは細い両手で檻に捕まっていた。


「ねえ琴子」弓は微笑み、鳥かごを前に差し出した。「私、ヨウセイを捕まえたの」

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