2話 妖精の輪

 生物部の部室は、高等部南校舎の第2化学実験室の横にある。部室とはいっても物置のような部屋で、実験器具だとか、割れた水槽だとか、古い天体望遠鏡が置かれている。狭いけれど静かな場所にあり、放課後は部員のたまり場となっている。もっとも部員は私を含めて三人しか在籍していないのだけれど。


安曇あずみ先輩、妖精の輪フェアリーリングって呼ばれる現象を知ってますか?」


 生物部の後輩、榎本えのもと夏木なつきは部室に入ってくるなりどや顔を浮かべた。小麦色の肌をした健康的な少女で、首にはスポーツタオルをかけている。


 私は返事をするのも億劫で、黙々と化学の課題を消化する。答えずにいると「ふふーん」と彼女は得意げな顔を浮かべた。


「知らないなら教えてあげますよ! 公園やゴルフ場の芝地でときたまみられる現象なんです。芝が環状になって濃く生えたあとに枯れて、その周囲にキノコが丸くなって生えるんですよ。一説ではヨウセイたちがキノコの輪の中で踊るなんて言われているんですね。それゆえにフェアリーリングです。しかししかししか~し! 実際はその現象にヨウセイは無関係だったんです! 実は近年になって、環状になったキノコから――」

「環状になったコムラサキシメジ(※1)から植物の生育を促進、また抑制する化合物が発見されたんでしょう。成長促進物質はトリアジン系だったっけ。植物内でのグルタチオンの発現量、窒素の含有量も増加しているとか。中々興味深いよね」

「……」


 夏木は少しの間ぽかーんとしていたけど、やがて頬を膨らませた。


「な、なんなんですかもうっ! 知ってるなら知ってるって言ってくださいよ! しかも私よりずっと詳しいじゃないっすか! も~う!」

「返事をするのが少し面倒だっただけよ」

「く、くうううぅ~!」


 夏木は地団太を踏んだ。彼女はことあるごとに、私に生物関連の知識を披露してくる。9割方の知識は私が既に知っているもので、そのたびに彼女は心底悔しそうにリアクションするのだ。小動物みたいで見ていて飽きない子だ。


 夏木は私へと指を突きつけた。


「じゃ、じゃあ先輩、これは知ってますか!? 最近フェアリーリングができる別の原因があるって分かったんです! 知ってますか、知ってますか! ……どうせ知ってるんでしょうけど」

「……そうなの? 聞いたことがないわね」

「え?」


 夏木はぽかんとしている。おや、と私は思った。いつもならば、私が知らなかったらそれはもう得意げな顔を浮かべてくるはずなのだけれど。


「し、知らないんですか? 最近、各誌で特集されてる結構ホットな話題なんですけど……。先輩なら絶対に知ってると思ってたし、駄目元だったんですけど……」

「アンテナに引っかからなかったのかな。それで、その理由は?」

「それが、本当にフェアリーなんですよ。フェアリーリングの中心でヨウセイの死骸が時たま見つかるって話は、先輩も知ってますよね?」

「……ええ」


 夏木の言った通り、フェアリーリングの中心ではヨウセイの死骸が見つかることが多い。だからこそヨウセイが輪の中で踊るなどという逸話がある。


「その輪の中で死んでるヨウセイって、シバヤマヨウセイ(※2)が多かったみたいなんです。その死骸と周囲の土を調べてみたらしいんですけど、ヨウセイの死骸とと土壌の両方からキノコの成長促進物質が見つかったらしいんですよ」

「キノコの成長促進物質?」

「そうなんすよ!」


 夏木が指を鳴らす。パチン、ではなくカスっとという掠れた音。


「ヨウセイの死骸からの抽出液をキノコに処理したら、コントロールと比べて有意な生育促進が見られたんです。つまりは死骸から溶脱した化合物が、菌輪の形成を促進させてたんです。まだ化合物の同定まではされてないみたいっすけどね」

「……ヨウセイの死骸が菌輪の形成を促進し、その菌輪がシバの生育を促進してったって流れになるのかしら」

「そうっすそうっす! こんなことあります?」

「……確かに、珍しいわね」


 菌類や植物は、動物と比べて多くの二次代謝産物――酵素などにより生み出された化合物――を有している。植物は動物と比べて移動ができず、外部からのストレスに対し様々な防御応答を発達させてきたためだ。


 菌類と植物には共生関係が多く報告されている。だから菌類が植物の生育促進や抑制に関する化合物を有していることはそこまで珍しくもない。しかし哺乳綱であるヨウセイがキノコの生育を促進する物質を有しているとは驚いた。その2種は密接な共生関係にでもあるのだろうか。


「シバヤマヨウセイがその化合物を有している理由についてまではまだ分かってないみたいっすけどね。論文じゃ外部由来の成分じゃないかって推測してましたね。シバヤマヨウセイが植物を食って、体内に化学物質を蓄積させているんじゃないかって話です。フグ毒みたいな感じっすね。ただシバヤマヨウセイは主として食肉性で、植物を食うなんて話はあまり聞いたこともないし矛盾が……」


 夏木の話を、私はぼんやりと聞き流していた。


 ヨウセイ。

 嫌な記憶が脳裏をよぎり、私は思わず顔を顰めてしまう。

 私がこの話題を知らなかったのは当然だ。私は意図的にヨウセイの話題を避けているのだから。論文等でもヨウセイの名が出ているだけで読み飛ばしてしまう。


 幼い頃に見た3体の剥製。

 次いで起こった母の死。


 無関係とは分かっていても、記憶の中でその2つは結びついてしまっている。結びつけないようにしよう、と意識した結果なおさら絡み合ってしまった。


「ちょっとちょっと先輩! なにぼけっとしてんすか! 私の話、聞いてますか?」

「……聞いてる聞いてる。フグが美味しいって話でしょう」

「何も聞いてないじゃないっすか!」


 夏木が怒鳴るのと同時に、ノックもせずに部室の扉が開いた。


 扉から顔を出したのは眠そうな目をした男――柴崎しばさきと呼ばれる化学教師だ。この生物部の名ばかりの顧問で、部室にやって来ることは滅多にないのだがどういう風の吹き回しだろう。


 彼は狭い部室の中を眺めると、だるそうに問いかけてきた。

「あー、お前ら。入月いりつきのやつ、来てないよな?」

「入月先輩っすか? 今週はまだ見てないっすけど」と夏木。


 入月いりつきゆみ。この生物部の部長だ。クラスは違うが私と同じ2年生だ。ちなみにその担任もこの柴崎。


「弓がどうかしたんですか?」と私は答える。


 柴崎はポケットから煙草を取り出して咥えた。校内は禁煙だがお構いなしだ。


「あいつ今週、学校来てねえんだわ。それも無断欠席。家に電話しても誰も出ねえ」

「……弓が? そうなんですか?」

「ああ。まだ進路希望調査票も貰ってねえしな。なあ、安曇。お前あいつの家知ってるだろ。様子見ついでに回収してきてくれねえか」

「……そうですね。様子も気になりますし、このあと見に行ってきます」

「そうか。頼んだぞ」


 柴崎は煙草を机の上の灰皿に押し付けると、部室から出て行った。


「これ毎度片付けるの勘弁してほしいんすけど」と夏木が嫌そうに言う。


 私は課題をバッグにしまい、椅子から立ち上がる。


「じゃあ、今日は先に帰るわね。私、あの子の様子を見に行ってくるから」


 私が部室から出て行こうとすると、後ろからバッグを掴まれた。

 振り返ると、夏木が不安そうな顔を浮かべている。


「夏木?」

「あの、先輩……。やっぱ私……あまりここに来ないほうがいいっすかね?」

「んん? 急にどうしたのよ?」


 意味が分からず、思わず首を傾げる。何がどう繋がってそんな話になったのか。


「いや、だってほら……入月先輩って、最近、部室に来ないじゃないっすか?」

「確かに頻度は落ちてるわね」


 去年、まだ1年生のとき生物部は私と弓の2人しか部員がいなかった。そのときは毎日、2人してこの部室に入り浸っていた。しかし2年になってからは弓は部室にあまり来なくなって、休日のフィールドワークにもあまり参加しなくなった。


「2年になって課題も増えたしね。忙しいんでしょう」

「その……自分は、その原因が、自分にあるんじゃないかって思うんすけど」

「え? 夏木に? どうしてそうなるの? 私のいないとこで喧嘩でもした?」

「いや、そういうわけじゃないっすけど……」

「……あのさ、夏木。私ってそれほど察しのいい人間じゃないの。何か思うことがあるのならはっきりと教えて欲しいなって思うけれど」

「……いえ。別に安曇先輩がそう言うんならいいんす。自分の思い違いっすから」


 もう一度尋ねても、夏木は首を横に振るばかりで答えてくれなかった。

 私は何か気持ち悪さのようなものを残し、部室を後にした。









注釈

※1 キシメジ科ムラサキシメジ属に属する真菌の一種。静岡大学の川岸らによってシバの生育を促進する2-アザヒポキサンチンを放出していることが突き止められた。2-アザヒポキサンチンは人工的には合成されているが、天然で発見された報告はこれが初である。


※2 カレクサヨウセイ科シバヤマヨウセイ属に属するヨウセイの一種。多くのヨウセイと同じく夜行性で、警戒心が強く、温暖湿潤な地域に生息。アリなどの昆虫類を好んで捕食するが、集団でネズミなどの小動物を狩猟する姿も目撃されている。

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