第42話龍ですか?
――もうやめてくれよ。
声を大にして叫びたかった。しかし、喉は弛緩し、体は逆に硬直してピクリとも動かない。なんだか自分の体なのに、まるで他人のようだ。一切の制御が効かない。息をすることでさえ、ままならない。
三度目の悪夢。ありふれた言葉で表現するなら、二度あることは三度ある、と言ったところだろうか。――いや、違う。明らかに、今回は違う。
うまく表現はできないが、前二度よりも、はるかに絶望を感じる。揺れは確かに大きい。しかし、実際のところ揺れだけで優劣を決めるのであれば、二度目の揺れが一番強かった気がする。
そうではない。
体を突き抜ける、恐怖。憎悪。威圧。殺気。歪み。
全てが混沌と交わり、思わず吐きそうになった。というか、危うく口から漏れそうになるくらいには寸前のところまで駆け上がっていた。
胸に手を当てていないと、心臓が握りつぶされそうだ。脳はガンガンとやかましく警音を鳴らす。何の感情ゆえなのか、涙がとめどなく溢れた。足腰は震えることすら許されない。
もはや、二人を気にしている余裕はなかった。そこにいるだけで精一杯。抗うのではない。必死に――死ぬ物狂いで、自分がまだ生きている事を確認し続けなければ、一瞬で舌を噛みちぎって自らこの絶望から解放を選択するだろう。
あぅ、あぅという声にならない息遣いが聞こえて来た。
不意に、肌が凍てつくような痛みを帯びていることに気が付く。うっすらと吐き出される息は、混じり気のない白色だ。
瞬く間に天を灰鼠色の雲が覆いかぶさる。月と星の明かりが遮られ、闇が迫る。しかし、誰も明かりを灯す魔法を使用しない。いや、できないのだ。皆、一様に動けない。
一瞬、体を縛り付ける殺気やら、憎悪などの絶望と一言で表したくなる枷が緩んだ。突然訪れる虚脱感。それでも、ハルトは体はおろか、視線すら天空を見据えたまま一歩たりとも動かなかった。
そいつは雲の上から、ゆっくり、ゆっくりと現れた。
ただただ、神々しかった。
ぼんやりと輝く淡いながらも照りのある群青色の鱗に覆われていた。見た目は翼の生えた爬虫類のような、いや、そんなちっぽけな存在で表すこともできない。しかし、ありていで述べるのならば馬鹿でかい蜥蜴だ。
身体のサイズから比較すると頭は案外小さい。それでもバジリスク程度であれば丸呑みできてしまうだろう。うどの大木のように太い四肢は、例外なくかぎ爪があり、四肢の側面から氷山の一角のように氷柱が突き立っている。水晶玉を思わせる透き通った青碧の瞳には、青い炎が宿っていた。睨まれただけで燃えてしまうのではないだろうか。いや、そうではない。奴は燃やすよりも、凍らせるようなイメージだ。
――龍。
正直、かっこいいと感じた。男の
こんなかっこいいのに魔物? そんなバカな。きっと神様の遣いとか、もしかしたら神様本体であっても何ら不思議じゃない。なんで、みんな逃げてるんだよ。もっとよく見ろよ。
「――ト! ……ハルトッ!」
我に返る、という表現でいいのだろうか。マナツに体を引きずられるように歩き出した。それでも、視線はあの龍から離してはいけない気がした。氷を生やしているなら、氷龍か? とさえ考えていた。
しかし、今更ながら脳の警音が聞こえ始めた。ずっと鳴り響いていただろうに、ようやく気が付いた。
「あれは……本気でやばい!」
「あぁ、やばいな……」
「は、早く逃げないと……でも、どこに……」
「そうだなぁー……」
一度、引きずられていた体が止まり、その結果、マナツにぶつかる。脳天に鈍い痛み。いや、相当な痛み。思い切り殴られたみたいな。というか、殴られた?
「しっかりしろ! リーダー!」
今にも泣き出しそうなマナツを見て、覚醒って言葉はおかしいかな。寝てるわけじゃないし。でも、幻想から引き返されたような。とにかく、正常な思考回路が舞い戻って来た。
モミジに目を向けると、彼女は歯を食いしばって涙を堪えている。何となく、ハルト自身のせいな気がした。
「……ご、ごめん」
それしか口に出せなかった。
伏せてしまいそうな気持ちを叱咤し、今度はしっかりと見据える。龍をなるべく視界に納めたまま、辺りを見回す。逃げ惑う者、先ほどのハルト同様に氷龍に見入っている者、既に失神して倒れている者。
統率とまではいかなくても、一致団結だった一つのチームは一瞬で崩壊した。姿を見せただけで、相手に壊滅的なダメージを与えるとか、本当に氷龍さんパネーっす。うん。
「ひとまず、街の中まで避難!」
「うん!」
「……はい!」
相当ぎこちない走りで、前を走る二人を必死に追いかける。時折、氷龍の方を振り返る。氷龍は上空三十メートルほどの地点で、翼も使わずに浮遊している。
門がすぐそこにあるはずなのに、やけに遠く感じた。あと、少し。あと、すこ――不意に振り返ってしまった。振り返らなければよかった。
氷龍が翼をゆっくりと広げ、そして勢いよく羽ばたかせた。その瞬間、空気は凍てつき、何もかもが凍った。草木は揺れを止め、時さえも止まったみたいだ。ハルトも体の水分という水分が凍りついた気がした。口内は、沸きだす唾液さえも瞬時に凍り、眼球も白く膜が張ったように凍り、やがて干からびた。
瞬きが怖くてできなかった。閉じて、開いたらポロっと瞳が取れてしまいそうだ。四肢さえも動かしたら、その場でバキッと折れてしまうかもしれない。
氷のつぶてが、目の前の街に降り注いだ。つぶてなんて可愛い言い方で良いのだろうか。ハルトの目の前に降り注いだつぶては拳ほどの大きさで、触れるとその瞬間、その部位が取れてしまいそうなくらい、禍々しく、ただひたすらに恐ろしい冷気を纏っていた。
もはや悲鳴すら聞こえなかった。翼を羽ばたかせただけで街は半壊。生き残りがどれほどいるのかも想像できない。建物は軒並み倒壊し、こんなにも冷え切っていると言うのに、火の手があちこちから上がる。
なんだよこれ。
桁が違いすぎる。
怖い。
怖い?
終わった?
終わったよね、これ。
ひとり残らず駆逐される。
めんどくさい……。
めんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさい。
ハルトは倒れるように膝を折った。
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